家づくりを検討しはじめて約2ヶ月。あれだけ回避していたローンのリスクを受け入れて、家を建てることに決めた。日本の一戸建ての寿命が30年のところ、90年もつ家を建てることを知ったのが大きなきっかけだった。90年もてば3歳の息子も死ぬまで住むことができるだろう。それならローンを組むリスクを飲めると思ったのだ。
家づくりを検討しはじめて約2ヶ月。あれだけ回避していたローンのリスクを受け入れて、家を建てることに決めた。日本の一戸建ての寿命が30年のところ、90年もつ家を建てることを知ったのが大きなきっかけだった。90年もてば3歳の息子も死ぬまで住むことができるだろう。それならローンを組むリスクを飲めると思ったのだ。
先日久々にZOOMを使って研修を受けた。体験型のビジネスシミュレーションゲームだ。
2020年度がもうすぐ半分が終わる。コロナによって仕事環境が急激に変わった半年間。でも、それが今や日常になりつつある。そんな中で、20卒の新卒社員に伝えたいことがある。大きな変化ととも社会にでた彼らには、大きな負担と希望が降りそそいでいる。
緊急事態宣言が出された4月7日。おおくの企業が休業や在宅勤務を余儀なくされた。仕事柄、4月は毎年新人研修シーズンであり忙しいのだが、この春はいつにも増してドタバタとしていた。新人研修のキャンセルは相次ぎ、一方で、オンラインによる新人研修ニーズが急増した。なんとかその準備を終え、新入社員の皆さんをオンライン新人研修に迎え入れた。
変化を迫られることになったのはもちろん研修だけではなく、企業内でのOJTも同様だった。“見て学ぶ“ということが難しくなった在宅ワークによるOJTは困難を極めた。手とり足とり教えることができなくなった上司や先輩は対応に追われたことだろう。
そして、このしわ寄せは新入社員に向かっている。はじめての試みであるオンラインの新入社員研修やOJTを受け、これまでの、つまり、“プロ“コロナの新人研修やOJTを受けることのできないはじめての世代である。そんな彼らを“コロナ世代“と呼び揶揄する人もいる。
もしかしたら20卒の新入社員はある意味で悲惨な世代なのかもしれない。でも、ほんとうにそうだろうか。ネガティブな言説にはかならずポジティブな側面も存在しているものだ。つまり、20卒新入社員はニューノーマルにおける、アフターコロナにおける先駆者になりうる稀有な存在なのだ。
入社から6ヶ月。そろそろ社会人としてのマンネリに陥りはじめるタイミングだろう。マンネリによってキャリアの不安に苛まれはじめるタイミングでもあるだろう。そして、君たちはたしかにいろいろな意味で稀有な新入社員だ。周りから揶揄されることもあるだろう。でも、安心してほしい。君たちはたしかにアフターコロナの新世代でもあるのだから。まだ長い仕事人生のスタート地点にいるのだから。
焦る必要はない。今この瞬間の目の前の経験を、楽しみながら学んでいってほしい。
人生はなるべくしてなるように展開している。
マネジメントに意志決定とか判断は避けては通れない。逆にいうと、それを避けていてはマネジメントにはなれない。このことは、部下の相談に乗るときによく脳裏を過ぎる。
相談をするということは自分に意志決定や判断の軸がないか、軸を持ちつつもその軸自身が不安が残ることを意味する。そういう意味で、マネジメントになるには意志決定の軸を明確にもったり、軸自体のバリエーションを増やしておくことが必要だ。
では、どのような軸があればよいのか。
ひとつめは、投資対効果の視点だ。
投入したコストに対してどれくらい利益が上がるかを検討することは意志決定のひとつの軸となりうる。たとえば、サービスを改善するとき、その改善はコストに見合った売上や利益が上がるかどうかを考える。逆にいえば、売上や利益につながらないサービス改善は、意味がないとまでは言わないが、生産性という観点ではあり得ない判断となる。経験上、この投資対効果の軸は欠かせない。
では、すべての意志決定の判断軸が投資対効果によってなされるかといえばそんなことはない。ぼく自身、その他に大切にしている軸がある。
それは矜恃とか信念とか言われるものだ。あるいは、譲れないものと言っていいかもしれない。それは、投資対効果と違って非合理的なものでもある。投資対効果をすこし下げてでも、大切にしたいものを守る意志決定もありうるということだ。たとえば、ぼくが携わっている教育や組織開発のサービスについて、自己実現を阻害するようなサービスにはしたくない。それが、投資対効果をいくらか下げるものだったとしても。
マネジメントには避けては通れない意志決定。そして、意思決定の軸となる投資対効果および矜恃、信念。ぼくの意志決定の軸が正しいとか正しいとかはあまり問題ではない。それぞれが妥当と思われる軸を持つことが重要ではないかと思う。
人生はなるべくしてなるように展開している。
連休明けはどうも仕事のエンジンがかからない、という人も多くいるのではないだろうか。15年以上はたらいてきて、ほとんど「サザエさん症候群」にかかったことのないぼくが考える、連休明けにスタートダッシュする方法について3つ書いてみた。
まずひとつは、ワークとライフを分断しないということだ。ワークのエンジンを切ってライフのエンジンをおもいっきり吹かすという過ごし方は、ワークの再開時にやはりおおくのエネルギーを必要とする。休ませたものを始動させるのだから当たり前のことだ。寝起きが悪いことに似ていると思う。
仕事のインプットは欠かさずにおこなうとよい。休暇中に10分インプットするだけで、連休明けのスタートが違う。メリハリはもちろん大切なのだが、それは、連休明けからいきなりスタートダッシュかませる人がおこなうことだ。ぼくみたいな凡人はそれが無理なので、準備運動だけは休暇中でも仕事をしておくのだ。
休ませたワークのエンジンを始動させるには、それなりの時間が必要だ。連休最終日の夜ははやめに寝て、朝早く起きてゆっくりと仕事の準備をすることをおすすめしたい。新聞を読みながらコーヒーを飲むのもいいし、ストレッチや瞑想もおすすめだ。アクセルをいきない踏み込む必要はない、エンジンをあたためるのだ。
だれも仕事から逃れることはできない。であるならば、いかに仕事と共存するかを考えたほうがいいのではないか。そう考えた結果、ぼくはワークとライフを分断せずに、休暇中でも仕事のインプットをおこなうことが慣習となったのだろう。
実際、この4連休は、自分のライフプランを描き、妻や両親と共有し話し合った。明確に仕事をしていたわけではないが、純粋にゆっくりしていたわけでもない。人生設計をするにあたっては、仕事を無視することができない。仕事とゆるやかにつながって過ごした連休だった。
おおくの人が人生のおおくの時間を仕事に費やす。だからこそ、おおくの人が仕事を楽しみ、ワークとライフを分断することなく共存するような仕事観をつくっていければと思っている。
人生はなるべくしてなるように展開している。
自分は唯一無二の存在である、この世は諸行無常である、自分の人生をよりよくするのは大切なことである、今現在を最期だと思って生きる
自己を尊重しろ、自分自身のことを真剣に考えろ
心身ともに健やかでありながら充実した人生を送る手段を身につけるのである。意義のないことや、凡庸なことはすべきではない。
自分でなくてもできるようなことは、仕事でもプライベートでもなすべきではない。なぜなら、すべての人生はその本質において唯一無二であり、その成就においても同様だからだ。自分の才能や唯一無二の価値を積極的に認め、自己肯定感を高めることが、他者に与えることにつながると僕は解釈した。そして、僕はそのように考えている。
わたしたちは人間関係を、こども時代の目でみたままにかたちづくる。不幸な人間関係にとりかこまれて育ったこどもは、おとなになっても愛や人間関係にたいする態度に否定的な色づけをしてしまうものなのだ。p101
わたしたちは自分にこうといかける必要がある。「こども時代の愛のイメージがいまの愛に投影していないか?これがほんとうにもとめている愛なのか?ほんとうにもとめている関係か?」愛を痛ましくも複雑なものとしてみている人は、その理由を探ってみる必要がある。p101-102
愛をもつれた関係だとかんがえている人、愛を虐待だとかんがえている人、愛はよろこばしい分かちあいだとかんがえている人、愛はだれかを誠実にこころにかけることだとおもっている人、それぞれにその理由がある。そのほとんどは、こどものころの愛の経験の反映に理由をもとめることができる。p102
不幸にして、ある人たち……じつはあまりにも多くの人たち…にとって、愛はしばしば支配的であり、操作であり、ときに憎しみである。しかし、不幸な経験によって形成された狂気に、いつまでもとらわれている必要はない。愛を定義しなおし、 望ましい関係をつくりあげることは可能である。ところが残念ながら、そうしようとする人は少ない。愛にたいするかんがえかたを変えようとせずに、なにか魔法のようなことがおこることを期待しながら、不幸な関係を維持している。問題をとり除くかわりに、その問題を共有している相手をとり除こうとする人のように、問題のなかにとどまっている。p102
むずかしい関係ではあるが、家族はときに最高の師であり、その相手から学ぶべきことはたくさんある。なぜなら、友人などのように、自分で選んだ関係ではなく、つながりを容易には断ちきれない関係だからだ。問題から逃げずに、どうしても解決法をみつけなければならないところに追いこまれる。そして、あるがままの相手をただ愛するという解決法をみつけることになるのだ。p98
わたしたちはロマンチックな関係のなかに癒し、幸福、安全、友情、満足、こころの交流など、多くのものをもとめている。その関係が人生を「確固としたもの」にし、抑うつから解放し、無限のよろこびをもたらすことを望んでいる。ようするに、ロマンチックな関係があらゆる意味で幸福をもたらすことをもとめているのである。多くの人は、とくべつな人さえみつかれば人生のすべてがよくなるとさえ信じている。(88頁)
ロマンチックな関係はある意味ですばらしいものであり、とてもむずかしいけれども魅力的な経験である。そんな関係がもてれば、自分をだめな人間だとおもうこともなく、この世にただひとりの人間としての誇りをもつことができる。ところが、まちがってその関係が自分を「確固としたもの」にしてくれると信じたときに、問題が生じる。人間関係は人を確固とした存在にしたりするものではない。それはおとぎ話の思考だ。(89頁)
独身で不幸な人は結婚しても不幸なのだ。専門職につけない人は、とくべつな人をみつけても、パートナーのいる専門職につけない人にしかなれない。親としての能力が欠けた人は、結婚しても親としての能力が欠けたままだ。そして、だれかとくべつな人がいなければ自分は無価値な存在だと感じている人は、その人との関係のなかでも、いずれは無価値性が外にあらわれる。あなたが求めている全体性や完全性はあなたの内部にあって、発見されるのは待っているのだ。(93頁)
真の答えは、他にもとめることをやめて自己を完成させることのなかにある。だれか愛する人をみつけようとするのではなく、自分自身を愛されるに値する人間につくりあげていこう。もっと自分を愛するようにと相手にしむける努力を、愛される価値のある自己をつくることにしむけよう。相手からあたえてほしいと望んでいるだけの愛を自分が相手にあたえているかどうか、じゅうぶんは愛をあたえていないのに相手からの愛だけを期待していないかどうか、自分自身に問いかけてみよう。ころわざにもあるように、あなたの船が堅牢でなければ、あなたといっしょに大洋を渡ろうとする人はだれもいないだろう。 (94頁)
人間関係は人生のレッスンを学ぶ最高の機会をあたえてくれるものである。自分はほんとうはどんな人間なのか、なにを恐れているのか、自分の力はどこから生まれるのか、真の愛とはなんなのか、人間関係はそれを発見するための場でもある。人間関係が最高の学びの場であるなどというと、抵抗をおぼえる人もいるかもしれない。なぜなら、人間関係は多くのばあい、なかなかおもうようにならない、ときにはひどくつらい経験だからだ。しかし、だからこそ、学び、成長し、愛し、愛されるための最高の場ともすることができるのである。(85頁)
もっとも親密な関係からもっとも疎遠な関係まで、それぞれの人間関係に共通する分母があなたという存在である。ひとつの人間関係にたいするあなたの態度……否定的か肯定的か、好意か憎悪かを問わず……、すべての人間関係に反映している。それぞれの関係にじゅうぶんな愛を注ぐか、それとも少ししか注がないか、それを選択するのはあなたなのだ。(85-86頁)
無意味な人間関係、偶然の人間関係などというものはない。配偶者から顔も知らない電話交換手まで、どんな出あい、どんな交際でも、幸福な関係でも不幸な関係でも、幸福でも不幸でもない関係でも、つきあう時間の長短や親密さの度合いのいかんを問わず、そこには意味がある。ものごとを大きな目でみれば、あらゆる人間関係には重要な意味がひめられている。ただすれちがっただけという些細な関係でさえ、そこから真の自己にかんする大きなものを学ぶことができる。出あうすべての人が、わたしたちに幸福や争いや不幸をもたらす可能性をもっている。どんな相手でも、予想もしなかったほどすばらしい愛をもたらす可能性をもっているのである。(88頁)
・その役割は退屈な仕事だったと気づく。「みんなの幸福の責任を感じなくてもいいんだから、いまはとても気が楽だ」
・自分は人をあざむいていたと気づく。「いい人を演じて、好感をもたせるために、みんなをあやつっていた」
・ありのままでいても、人に好かれる自分であることに気づく。
・自分の行動が恐れから生じていたことに気づく。(善人ではないという恐れ、天国には行けないという恐れ、人に好かれないという恐れ)
・報酬を得るために役割を利用していたと気づく。「だれからも愛され、尊敬される人になろうとしていたが、自分はみんなとおなじ、ただの人間だ」
・他人は大いに悩むがいい、それが自己発見への道だ、そうおもっていたと気づく。
・自分の優位性を感じたいために他人の弱点を強調していたことに気づく。
・他人の「破綻」を強調することによって自分の問題を回避していたことに気づく。(33-34頁)
もしだれもみていなかったら、自分はなにをするだろうかと自問してもいい。結果をかんがえずに、したいことがなんでもできるとしたらどうだろう?その問いにたいする答えのなかに、真の自己にかんする多くのものがふくまれている。(39頁)
真の自己を発見し、真の自己でありつづけること。ほんとうはなにがしたいのか、なにがしたくないのかをみわけること。その作業は自分自身の経験にゆだねることによっておこなわれる。そのためには、あらゆることはしなければならない。職業の種類から身につける服装まで、よろこびややすらぎが得られるかどうかは、その判断にかかっているからだ。他人の目を意識してなにか価値ある行為をしても、それは自分にとっての価値ある行為にはならない。にもかかわらず、わたしたちの多くはしたいことをするよりもするべきことをしながら生きている。(38-39頁)
真の自己をみつけようとする人のまえにあらわれるのは、そのために必要な作業、つまり、学ぶべきレッスンだ。内部の存在と外部の存在がひとつになったとき、人はもはや自己を隠すことも、恐れることも、守ることもなくなる。周囲の状況を超越したなにものかとして、自己をみるようになる。(42頁)
あなたの本質はもっとも純粋な愛であり、壮大ともいえる完全性である。あなたは自己を癒し、自己がだれであったのかをおもいだすために、地上に生まれてきた。おもいだすべきあなたの本質こそが、闇夜を行くときのみちびきの光である。 (42頁)
わたしはわたしのことをして、あなたはあなたのことをする。
わたしは、あなたの期待に応えるために、この世にいるのでは、ない。
あなたも、わたしの期待に応えるために、この世にいるのでは、ない。
あなたはあなた、わたしはわたし。
もし偶然にお互いが出会うことがあれば、それは素晴らしいこと。
けれどもし出会うことがなければ、それはそれで、いたしかたがないこと。
─────フレデリック・パールズ
レッスンを学ぶことは成熟していくことにやや似ている。とつぜん幸福になったり、力がついたり、裕福になったりすることはないが、周囲の世界にたいする理解が深まり、自分自身とのおりあいがつけやすくなる。人生のレッスンを学んだからといって人生が完全なものになるわけではないが、そうなるはずだったような人生をみることには確実につながる。(19-20頁)
わたしたちは自分についてあたえられたレッスンを学ぶために地上に生まれてきた。しかし、「あなたのレッスンはこれだ」と教えることのできる人はだれもいない。それをみつけることが、人生という個人的な旅の一部なのだ。その旅の途上で、獲得すべき多くのものがあたえられることもあれば、ほんのすこししかあたえられないこともあるだろうが、その人の手にあまるほどのものがあたえられることはけっしてない。(20頁)
喪失に直面したとき、われわれのクライアントたちは、重要なのは愛だけだったということに気づいた。じつは愛こそは、われわれが自由に御し、身につけ、もち歩くことができる唯一のものである。クライアントたちは「彼方」に幸福をもとめることを断念した。そのかわり、かれらは自分がすでにもっていたもののなかに、自分自身であることのなかに豊穣と意味をみいだす方法を学び、すでにある可能性を深く掘りさげる方法を身につけた。(21頁)
どんな状況であれ、最悪の事態に直面したときに、人間は成長する。状況が最悪になったときにこそ、最良のものをみいだすことができる。そのレッスンのほんとうの意味がわかったとき、幸福で意味のある人生もみいだすことができるようになる。完璧ではないが真正の人生がみつかり、十全な生をまっとうすることができる。(22頁)
たいがいの人は人生のさまざまな場面で多くの役割を演じている。わたしたちはその場におうじて役割を変える方法を身につけているが、役割という殻の内側、つまり真の自己でありつづける方法を知っている人は少ない。…問題はその役割が真の自己にとってどう役立ち、どんな矛盾をもたらすかに気づいているかいないかにあるのだ。(30頁)
さまざまな役割をたまねぎの皮のようなもので、皮をむいていると多少の涙がでるように、役割の内側にある真の自己を発見するには、多少の苦痛がともなうこともある。(30頁)
内なる否定性の存在をみとめることは人間に必須の条件である。その存在をみとめさえすれば、そこにはたらきかけ、それを手放すことも可能になる。人生のレッスンを学んでいくにつれて、さまざまな役割の層がひとつずつはがれていき、うち奥にひそむ、自分にとって好ましくないものがみえてくる。みえてきたものが自己の本質、自分の正体であり、それが悪であるというわけではない。ただ、自分では気づかなかった一面があったというだけのことだ。(30-31頁)
人生のいかなる局面においてもつねに並はずれていい人であるとしたら、それはまやかしであり、にせものである。人生の振り子が中心点にもどるには、軌道の一方の端と他方の端のあいだを何度も往復しなければならない。そして、振り子がゆれるたびに、人は不機嫌になる。真の自己がみいだせるのは振り子が中心点にあるときだけであり、そのときの自分はなにかを得るためにあたえるような人ではなく、慈悲心から生まれた、ほんものの「いい人」になっている。(31頁)
ほんものの自己に立ちかえることは、人間の自己というものの完全性をひきうけることである。そこには、わたしたちが隠したがる暗い側面もふくまれているかもしれない。人間は善なるものに惹かれる存在だとおもわれがちだが、じっさいに惹かれているのは善でも悪でもなく真正なもの、ほんものなのだ。その証拠として、わたしたちは余分な飾りをつけて真の自己を隠している人よりも、偽りのない人に好感をいだく。(44頁)
病気とたたかっている人をみていると、自分とはなにかを知るためには、ほんものの自己ではないものをすべて脱ぎすてなければならないということがわかってくる。死にゆく人をみるとき、わたしたちがみているのは、もはやかれらの欠点でも、過ちでも、それまでは関心の的だった病状でもなくなっている。みているのは、ただその人だけだ。というのも、生の終局にあって、その人は以前よりもずっと純粋に、正直に……まるで赤ん坊のように……その人自身になっているからだ。(24頁)
その人の真の姿をみることができるのは生のはじまりとおわりだけなのか?平凡な真実が姿をあらわすのは極限状況のときだけなのか?それ以外のときは、真の自己がみえないのか?おのれの真の自己を発見し、他者のなかにもその人の真正の自己をみること……それが人生の第一のレッスンである。(24頁)
すでにあなたのなかにいる偉大な人物も、姿をあらわす準備ができている。どんな人でも偉大さの萌芽をもっている。「偉大な」人物が、ほかの人たちのもっていないものをもっているというわけではない。「偉大な」人物はただ、最良の自己のまえにたちはだかる余分なものを脱ぎすてているだけなのだ。(25頁)
人生のレッスンとは、みずからの卑小性にはたらきかけ、否定性をとりのぞいて、自己のなかにも他者のなかにもある最良のものをみいだす作業にかかわるものだ。人生の暴風にも似たそのレッスンは、わたしたちを本来のわたしたちに立ちかえらせてくれる。わたしたちはたがいに癒しあい、また自己を癒すために地上に生まれてきた。それは身体症状の回復という意味での癒しではなく、はるかに深いレベルでの癒し、精神の、そしてたましいの癒しである。(8頁)
家づくりを検討しはじめて約2ヶ月。あれだけ回避していたローンのリスクを受け入れて、家を建てることに決めた。日本の一戸建ての寿命が30年のところ、90年もつ家を建てることを知ったのが大きなきっかけだった。90年もてば3歳の息子も死ぬまで住むことができるだろう。それならローンを組...