2020年11月16日月曜日

人生を決めているもの。住宅と街並みとぼくの視線から考える人生論。

 


家づくりを検討しはじめて約2ヶ月。あれだけ回避していたローンのリスクを受け入れて、家を建てることに決めた。日本の一戸建ての寿命が30年のところ、90年もつ家を建てることを知ったのが大きなきっかけだった。90年もてば3歳の息子も死ぬまで住むことができるだろう。それならローンを組むリスクを飲めると思ったのだ。


海外は長寿命の家づくりをしているため、その家系は裕福になっていくと言われている。子どもも孫もその家に住めば、家賃を払わなくて生きていけるということになる。その分、資産を蓄えることができるだろう。

ぼくは実際、これまでまったく家に興味関心がなかった。通勤や客先への移動中に通り過ぎただろう幾千もの住宅はぼくの視界に存在していたのだろうが、それを捉えることはこれまでなかった。それが、家を建てる検討をはじめてからというもの、通り過ぎる住宅に目が行くようになった。どんな外壁を使っているのか、外溝はどんなデザインなのか、など通り過ぎる住宅をいちいち見てしまう。

ぼくたちは興味関心のあるものに突き動かされている。一方で、興味関心のないものには見向きもしない。そのように日々過ごしている。そういう意味で、ぼくたちの人生を決めているのは、すなわち自分自身の興味関心であり、まさしく自分が自分の人生の行く末を決めていると言える。

あなたは何に興味関心があるだろうか。また、何に興味関心がないだろうか。それは、なぜだろうか。

もし、この記事を読んでいるあなたが今の人生に満足していないのなら、こうした自問自答が何かの役に立つかもしれない。ぜひ、試してみてほしい。

人生はなるべくしてなるように展開している。

2020年11月9日月曜日

退屈なオンライン研修の量産を超えて。

 



先日久々にZOOMを使って研修を受けた。体験型のビジネスシミュレーションゲームだ。


コロナ禍によってオフラインの集合研修が開催できなくなり、オンラインへの移行が強制された。そこで、絶滅危惧種となっていたのが体験学習のプログラムだ。

ウェブ会議システムでの研修実施になったことによって、リアルで実施できていた体験学習のプログラムが使えなくなってしまったのだ。そのため、オンラインの研修は基本的にはディスカッションを少人数で行うか、講師の講義を受け身で聞くほかなくなってしまった。結果何が起こったのか。退屈なオンライン研修が量産されてしまったのではないかと思う。

そんななかで、今後求められるのは体験学習プログラムのオンライン化だろう。エン・ジャパンではすでにオンライン上でも実施できる体験学習プログラムを用意しており、大手企業からも喜びの声をいただいている。オンラインであっても直接、研修講師と同じ時間を過ごすならば、講義だけでなく体験学習プログラムが必要だろう。単なる講義だけなら、わざわざ講師と時間をあわせてウェブ会議システム上で会わなくても、Eラーニングで事足りる。

退屈なオンライン研修の量産を超えて。
いかにオンラインでも退屈しない、リアルと同等の価値を出すオンライン研修プログラムをつくれるのか。

そんなことを今後も考えていきたいと思う。

2020年9月25日金曜日

20卒新入社員に伝えたいこと

2020年度がもうすぐ半分が終わる。コロナによって仕事環境が急激に変わった半年間。でも、それが今や日常になりつつある。そんな中で、20卒の新卒社員に伝えたいことがある。大きな変化ととも社会にでた彼らには、大きな負担と希望が降りそそいでいる。


緊急事態宣言が出された4月7日。おおくの企業が休業や在宅勤務を余儀なくされた。仕事柄、4月は毎年新人研修シーズンであり忙しいのだが、この春はいつにも増してドタバタとしていた。新人研修のキャンセルは相次ぎ、一方で、オンラインによる新人研修ニーズが急増した。なんとかその準備を終え、新入社員の皆さんをオンライン新人研修に迎え入れた。


変化を迫られることになったのはもちろん研修だけではなく、企業内でのOJTも同様だった。“見て学ぶ“ということが難しくなった在宅ワークによるOJTは困難を極めた。手とり足とり教えることができなくなった上司や先輩は対応に追われたことだろう。


そして、このしわ寄せは新入社員に向かっている。はじめての試みであるオンラインの新入社員研修やOJTを受け、これまでの、つまり、“プロ“コロナの新人研修やOJTを受けることのできないはじめての世代である。そんな彼らを“コロナ世代“と呼び揶揄する人もいる。


もしかしたら20卒の新入社員はある意味で悲惨な世代なのかもしれない。でも、ほんとうにそうだろうか。ネガティブな言説にはかならずポジティブな側面も存在しているものだ。つまり、20卒新入社員はニューノーマルにおける、アフターコロナにおける先駆者になりうる稀有な存在なのだ。


入社から6ヶ月。そろそろ社会人としてのマンネリに陥りはじめるタイミングだろう。マンネリによってキャリアの不安に苛まれはじめるタイミングでもあるだろう。そして、君たちはたしかにいろいろな意味で稀有な新入社員だ。周りから揶揄されることもあるだろう。でも、安心してほしい。君たちはたしかにアフターコロナの新世代でもあるのだから。まだ長い仕事人生のスタート地点にいるのだから。


焦る必要はない。今この瞬間の目の前の経験を、楽しみながら学んでいってほしい。


人生はなるべくしてなるように展開している。

2020年9月24日木曜日

マネジメントの意志決定においてぼくが大切にしていること


マネジメントに意志決定とか判断は避けては通れない。逆にいうと、それを避けていてはマネジメントにはなれない。このことは、部下の相談に乗るときによく脳裏を過ぎる。


相談をするということは自分に意志決定や判断の軸がないか、軸を持ちつつもその軸自身が不安が残ることを意味する。そういう意味で、マネジメントになるには意志決定の軸を明確にもったり、軸自体のバリエーションを増やしておくことが必要だ。


では、どのような軸があればよいのか。


ひとつめは、投資対効果の視点だ。


投入したコストに対してどれくらい利益が上がるかを検討することは意志決定のひとつの軸となりうる。たとえば、サービスを改善するとき、その改善はコストに見合った売上や利益が上がるかどうかを考える。逆にいえば、売上や利益につながらないサービス改善は、意味がないとまでは言わないが、生産性という観点ではあり得ない判断となる。経験上、この投資対効果の軸は欠かせない。


では、すべての意志決定の判断軸が投資対効果によってなされるかといえばそんなことはない。ぼく自身、その他に大切にしている軸がある。


それは矜恃とか信念とか言われるものだ。あるいは、譲れないものと言っていいかもしれない。それは、投資対効果と違って非合理的なものでもある。投資対効果をすこし下げてでも、大切にしたいものを守る意志決定もありうるということだ。たとえば、ぼくが携わっている教育や組織開発のサービスについて、自己実現を阻害するようなサービスにはしたくない。それが、投資対効果をいくらか下げるものだったとしても。


マネジメントには避けては通れない意志決定。そして、意思決定の軸となる投資対効果および矜恃、信念。ぼくの意志決定の軸が正しいとか正しいとかはあまり問題ではない。それぞれが妥当と思われる軸を持つことが重要ではないかと思う。


人生はなるべくしてなるように展開している。

2020年9月23日水曜日

連休明けにスタートダッシュする方法

連休明けはどうも仕事のエンジンがかからない、という人も多くいるのではないだろうか。15年以上はたらいてきて、ほとんど「サザエさん症候群」にかかったことのないぼくが考える、連休明けにスタートダッシュする方法について3つ書いてみた。


ワークとライフを分断しない


まずひとつは、ワークとライフを分断しないということだ。ワークのエンジンを切ってライフのエンジンをおもいっきり吹かすという過ごし方は、ワークの再開時にやはりおおくのエネルギーを必要とする。休ませたものを始動させるのだから当たり前のことだ。寝起きが悪いことに似ていると思う。


休暇中もインプットは欠かさない


仕事のインプットは欠かさずにおこなうとよい。休暇中に10分インプットするだけで、連休明けのスタートが違う。メリハリはもちろん大切なのだが、それは、連休明けからいきなりスタートダッシュかませる人がおこなうことだ。ぼくみたいな凡人はそれが無理なので、準備運動だけは休暇中でも仕事をしておくのだ。


連休明け初日の朝はゆったりと


休ませたワークのエンジンを始動させるには、それなりの時間が必要だ。連休最終日の夜ははやめに寝て、朝早く起きてゆっくりと仕事の準備をすることをおすすめしたい。新聞を読みながらコーヒーを飲むのもいいし、ストレッチや瞑想もおすすめだ。アクセルをいきない踏み込む必要はない、エンジンをあたためるのだ。



だれも仕事から逃れることはできない。であるならば、いかに仕事と共存するかを考えたほうがいいのではないか。そう考えた結果、ぼくはワークとライフを分断せずに、休暇中でも仕事のインプットをおこなうことが慣習となったのだろう。


実際、この4連休は、自分のライフプランを描き、妻や両親と共有し話し合った。明確に仕事をしていたわけではないが、純粋にゆっくりしていたわけでもない。人生設計をするにあたっては、仕事を無視することができない。仕事とゆるやかにつながって過ごした連休だった。


おおくの人が人生のおおくの時間を仕事に費やす。だからこそ、おおくの人が仕事を楽しみ、ワークとライフを分断することなく共存するような仕事観をつくっていければと思っている。


人生はなるべくしてなるように展開している。

2017年8月28日月曜日

利他主義が世界を救う?利他主義と自己肯定感の関係性。


ジャック・アタリが利他主義が重要で、その根底には自己肯定感が重要であると言い出したことに、久々に興奮してしまった。興味がある方はこちらから購入。


ここ数年は、心理学をベースに人の自己肯定感をどう高めるかについて情報をとったり、実際にカウンセリングにトライしてきた。自分がやってきたことに間違いはなかった、と自信がつき嬉しくなった。



■未来は光はあれど暗い

この書籍では、アタリが2030年について未来を予測。政治、経済、芸術、技術とあらゆる角度から未来について考察している。もちろん、ポジティブな面もネガティブな面もある。

最終的には、2030年、ポジティブな影響を飲み込むほど僕たちが抱える問題は大きくなっているだろうと予測している。その解決策として利他主義を提示している。


■アタリが提示する利他主義

アタリは、人類の存在そのものが危機にされされていると主張する。そして、その原因は、”利己主義、貪欲さ、野蛮さ”であるという。また、世界規模で起こっていることを規制する法律がないこともその大きな要因として挙げている。

そして、危機回避には利他主義が必要で、人は不思議なもので、利己主義な側面と利他主義な側面、両方持ち合わせている。決して、利己主義という性質のみしかもたないという訳ではない。

だからこそ、積極的に利他主義を呼び起こさなければならない。そもそも、人類が生き残れたのは利他主義があったからだ。人類は人の手助けなしでは、子孫を残せない。人類のDNAには確実に利他主義が埋め込んであるのだ。


■利他主義を促す高い自己肯定感

実際には、書籍内には自己肯定感という言葉は使われていない。ただ、自己肯定感を重要視していることが覗える文面は多々ある。たとえば、
自分は唯一無二の存在である、この世は諸行無常である、自分の人生をよりよくするのは大切なことである、今現在を最期だと思って生きる
自己を尊重しろ、自分自身のことを真剣に考えろ
心身ともに健やかでありながら充実した人生を送る手段を身につけるのである。意義のないことや、凡庸なことはすべきではない。
自分でなくてもできるようなことは、仕事でもプライベートでもなすべきではない。なぜなら、すべての人生はその本質において唯一無二であり、その成就においても同様だからだ。
自分の才能や唯一無二の価値を積極的に認め、自己肯定感を高めることが、他者に与えることにつながると僕は解釈した。そして、僕はそのように考えている。

”人の為”と書いて”偽り”。まずは、自分自身を生き抜かなければ、誰かに与えることなどできないのではないか。

これからも僕は人の心について、自己肯定感について考え続けていく。


人生はなるべくしてなるように展開している。

2017年8月25日金曜日

嫌われる勇気。かんたんな雑感。

後れ馳せながら、一時期話題になった『嫌われる勇気』を読んだ。
嫌われる勇気というタイトルからはその真意がわからなかったが、かなり興味深い内容だった。ぼくなりに感じたことをまとめておこうと思う。


他者に嫌われないために生きる

人目が気になって仕事に集中できないとか、気をつかって疲れるとか、ストレスがたまるってお話はよく聞く話である。

また、仕事の目的が如何に怒られないか、嫌われないか、如何に優秀そうに見せて気に入ってもらえるかに終始している人は多い。仕事の目的のベクトルが自分に向いているから、なかなか成果に結びつかない。

頑張ってはいるけど、いつまでも報われない。とかく、そういう人は人生に疲れ切っていたりする。

嫌われないために自分を偽る

そして、生きることが嫌われないためになってしまうと、たいてい、そこについて回るのが、自分を偽るということだ。

ムカつくけどいい顔する。構ってほしいけど強がる。できないと思うのに、できるという。などなど。どんな反応をするかは人にもよる。

つまり、感情と行動が一致してない状態。これが続いていくと、もちろんのこと、疲れていってしまう。自分を偽って演技をし続けなければならないからね。

そして、生きづらい人生がずっと続いていく。

嫌われる勇気をもつことで自由になれる

そこで登場するのが、〈嫌われる勇気〉という考え方なんですね。

演技をしてストレスを溜めたくない、もっと自由に生きたいのなら、言行一致させるほかありません。

ですが、そうするともちろん自分の意見や主張に賛同しない人や、反対してくる人もいるでしょう。ここで、反対する人がいたとしても、彼らは彼ら。私には私の意見があるのだ、と割りきる勇気のことを〈嫌われる勇気〉と言っているんですね。

僕たちは〈嫌われる勇気〉をもつことで、本当に自由に生きることができる。他者に支配されない、干渉されないような人生を。

このように、自己実現を促すような支援をしていきたい、それが僕の最近のねがいです。

なんだかモヤモヤしている方。
つらいことが多いと嘆いている方。
いつも不安に苛まれている方。
少しでも自分を変えようと思う方。

そうした方に、お勧めしたい一冊ですね。


人生はなるべくしてなるように展開している。

2017年2月15日水曜日

やり抜く力を高める方法①

最近、話題のGRIT、やり抜く力に関する書籍が売れていますね。

”やり抜く”というタイトルを見ると、また、ブラックな書籍か、なんて声もちらほら聞こえてくるのですが、正真正銘の心理学の良書です。

やり抜くためのノウハウを教えるものではなく、むしろ自分の心に正直に、情熱や目的をもって働くための、非常に内省要素の多い書籍です。

ちょっと、ポイントだけかいつまんでおきたいと思います。




好きなことだからやり抜ける

好きでもないことをやり抜く、といった主張はこの書籍にはまったく出てきません。むしろ、好きだから継続できる、やり抜けるという論旨なんですね。

好きなことだったら、誰かに止められても、続けてしまう。好きなことをしていたら、時間が過ぎるのがはやい、などなど。おそらく、皆さんも経験をしたことがあるのではないでしょうか。

GRITの書籍もいたってシンプルな結論なんです。好きなことをやっている人は”やり抜く力”が高いってね。


好きなことを再発見する

とはいえ、大人になればなるほど、好きだと言えるものが少なくなってくるのは私だけでしょうか?無邪気に夢を語っていた頃が懐かしい。。。

そこで、好きなことや情熱を再発見する必要があります。仕事上キャリア形成支援に関わる私は、多くの人が自分のやりたいことを忘れて過ごしている、と感じます。

好きなことを再発見するには、まずは心の声に耳をすますということから始めなければなりません。そして、過去から現在にかけて、自分が熱中していたことを思い出していくのです。

おそらくこの作業は長い思索を要するでしょう。それだけ、私たちは自分のことを抑圧できるということです。悲しいですけど。

この後が重要なのですが、微かにでも聞こえた心の声があれば、興味のある何かが見つかったら、それを行動に移してみることです。

好きなことは思索に耽るだけでは見つかりません。体感を伴って徐々に身に沁みてくるのです。


好きなことの共通項を見つける

少しずつ行動に移しながら、ぜひ考えてみて欲しいのが、好きなことの共通項を見つけるという作業です。

この共通項を探る作業は、好きなことをさらに洗練することにあたります。自分の情熱のまわりにたたずむ不純物を取り除いていくイメージです。

この作業を通して発見した私の好きなことは、学ぶこと、支援すること、ありのままでいること、の3つでした。

おそらく何のことを言っているのか、他者が具体的に知り得ることはできないと思いますが、それでいいのです。それくらい洗練に洗練を重ねていきます。


GRIT"やり抜く力"に必要なのは、好きなことの他に3つあります。
順次紹介していきます!


人生はなるべくしてなるように展開している


2017年2月14日火曜日

人はフォローアップなしで変われない

人材開発や組織開発に従事していて、最近、特に感じること。それは、人や組織はフォローアップなしでは変われないということだ。

研修サービスやコンサル会社はごまんとあるし、コンサルタントも数え切れないほど存在する。数々の研修やコンサルテーションが実施されているのにも関わらず、目に見えて大きな成果が出せない。または、問題が減っていかない。その理由はフォローアップがないということに尽きるのではないか。


フォローなしで変われるのはごくわずか

企業で行われている研修に参加して、実際に行動を変えることができる人は20%ほど、そんな研究結果がある。

ぼくたちコンサルタントは、受講者の行動が変わるように、よりよいキャリアを歩めるようにと理想を掲げながら頑張るなのだが、実際のところ効果はほとんどない、という悲しい結果になっているのが実情だ(行動が変わらないという意味において)。

研修実施には、それ相応の準備や体力、気力も使うのだが、それでもなかなか行動変容を促すということは難しい、という訳だ。コンサルタントはこの事実を厳粛に受け止める必要があると思う。


なぜ人は変われないのか

では、なぜ行動変容の支援をするのは難しいのだろうか?いろいろな原因が考えられるが、代表的なものに、
  • 思ったよりも時間がかかる
  • 思ったよりも難しい
  • 他にすることがある
  • 思ったような結果が得られない
  • 勝利宣言を早々としてしまう
  • 永久にやつづけなくてはならない
などなどが挙げられる。改善のための行動計画を書いた瞬間に忘れ去ってしまう人もいれば、挑戦してみたものの3日坊主で終わってしまったなど、挫折してしまう人もいるだろう。


コーチやメンターを見つける

このように一人の人が、自らで行動を変えることは至難の業なのだ。そこで、有用なのがコーチやメンターを探し、フォローしてもらうことである。

このコーチやメンターは、直属の上司よりは同僚や友人などがいいと思われる。直属の上司だと、肝心な行動変容計画以外の重要なタスクにも関わる人物なので、どうしても優先順位が下がってしまうからだ。

また、コーチやメンターとの関係性は対等であると望ましい。新しい行動をおこなうためには、それ相応の勇気や自信が必要だ。そのためには、当事者にとって心理的に安全だと思える人がよい。つまり、信頼できる人のことだ。どのような自分をも認めてくれ、新しいチャレンジを心から応援してくれるような存在である。

ぜひ、試してみてほしい。


日々、人の行動に着目して仕事をしている訳なのだが、奥はまだまだ深そうだ。


人生はなるべくしてなるように展開している

2017年2月10日金曜日

生きづらさ脱却のための”フリーチャイルドの解放”とは?

生きづらさを感じる人がこんなにいるのか、と気づかされたのはぼくが仲良くしている後輩との出会いがきっかけだった。当時の彼は、自分の長所をひとつも語ることができなかった。ぼくは彼の長所をいくつも上げることができたのにも関わらず。

ぼくはどちらかというと自分のことが好きで、自己肯定の感覚のある方だと思う。そのため、このときはじめて、人の自分自身に対する見方はこんなにも差があり、自分を肯定的に認められないのだ、ということを知ったのだ。

今日は生きづらさ脱却のための”フリーチャイルドの解放”というキーワードを紹介する。



■フリーチャイルドとは自由な子どもの心!

フリーチャイルド(Free Child)は、アメリカの精神科医であるエリック・バーンが創始したとされるTA心理学(Transactional Analysis Psychology)の、エゴグラムという診断ツールに登場する用語だ。

エゴグラムは、ぼくたちの心の中には”5人家族が住んでいる”という前提にたっており、厳しい父親、優しい母親、大人、自由な子ども、従順な子どもが登場する。そして、この5人家族の登場頻度が人それぞれ違い、その違いが物事の捉え方の多様性を生み出していると考える。

そして、フリーチャイルドは、そう、この”自由な子ども”を指している。
このエゴグラムという診断は無料ツールもたくさんでているので、ぜひ一度試してみてほしい。


■生きづらさの原因である厳しい父親と従順な子ども

結論から言ってしまうと、厳しい父親と従順な子どもの登場頻度が高いと生きづらさを感じてしまうのだが、なぜだろうか。

厳しい父親の登場頻度が高い人の特徴は、”べき論”や”ねば論”が強いことにある。たとえば、「男は●●であら”ねば”ならない」、「仕事は●●す”べき”である」と考える。ある物事を白黒で考える癖があり、良し悪しをつけたがり、たいていの場合、責任感が強く、自分に厳しい方が多い。

そして、従順な子どもの登場頻度が高い人は、自分を抑え、言いたいことを言わず、人に従う傾向がある。例えば、八方美人の人はこれにあてはまる。言いたいことがあってもぐっと我慢する。そして、ストレスを溜めて爆発してしまう。そして、そんな自分が嫌になる。


■自分に縛られるのが厳しい父親、他者に縛られる従順な子ども

生きづらさを感じやすい理由は、何かに縛られているという感覚から生まれます。

厳しい父親は、自分自身の”べき論”、”ねば論”に縛られている。そして、このふたつの”論”は両親から植えつけられたものが多いのだ。本当の自分自身を偽っても、この”ふたつの論”に従って行動しようとする。

逆に、従順な子どもは他者に縛られている。相手が怒らないか、嫌われないか、役に立たないと思われないか、などを気にしながら行動してしまう。もちろん、従順な子どもも親の影響を受けています。従順になることによって、親が喜んでくれたという経験が従順な子どもを強化したと言える。

いづれにしても、何かに縛られているから生きづらさを感じるのだ。


■救世主の自由な子ども

そして、いよいよ登場する自由な子どもは、この縛りという閉塞感を打破してくれる救世主だ。

自分が好きなことを追求する。誰からも干渉されずに行動する。言いたいことを言う。それができるだけで、人生は少なからず変わる。気持ちが晴れ晴れする。

自由に振舞うことで、孤独を感じたり、仲間はずれにされたりすることもあるのだが、そうしたネガティブな経験よりも得ることが多いというのが私の実感だ。

ぼくはエゴグラムの診断では自由な子どもが高い数値になる。現実、どちらかといえば自由に生きている。それでも、仕事はうまくやれている(はずだ)し、誰かに嫌われることもそんなにない。自分らしく生きることで失うことはあまりない。


生きづらさ脱却のためには、この”フリーチャイルドの解放”が重要なのだ。
自分に素直になって行動してみるということ。束縛から逃れること。



人生はなるべくしてなるように展開している

2017年2月9日木曜日

人材は能力開発だけではない!発達という新たな視点を考える

日々、人材開発のコンサルタントとして、教材開発から研修実施、コンサルテーションを行っている私ですが、最近注目しているのは、人材の”発達”という視点です。

構成主義的発達心理学という領域になりますが、これがまた非常に興味深い。発達を成し遂げることがすぐに幸福につながる訳ではないですが、発達段階の高いリーダーは、高い成果を出すことが、わかっています。(参考:『行動探求』




◆キーガンの発達の5段階

成人の発達心理学においては、アメリカンのロバート・キーガンという教授が有名です。氏は『人と組織はなぜ変われないのか?』を書いています。

キーガンの要諦はこうです。人の発達には5段階あるということ。

2段階 手段・道具的段階
3段階 他者依存段階
4段階 自己著述段階
5段階 自己認識段階

この段階が上がればあがるほど、広く高い視野で物事が見え、ジレンマを統合し、複雑な状況において最適解を見出すことができるそう。

個人的には、この人材の発達は、セルフ・エスティームという自己肯定感に密接に関連があると思っています。アダルト・チルドレンや愛着障害といった症状に悩まされている方にも適用でい、解決策を提示してくれる研究領域でもあると思います。


◆各段階の特徴

各段階の特徴を大まかにいってしまうと、

2段階 手段・道具的段階においては、自分自身の欲求を満たすために、他者を手段や道具としてみなします。他者の欲求を退けるのです。弱肉強食の価値観を持ち、職場では出世第一主義に動くような人のことです。

3段階 他者依存段階は、自分自身はこういう人間であるといった自己イメージを形成するために、組織や他者に依存します。つまり、他者に奉仕することによって、自己の存在意義を見出す傾向にあります。

4段階 自己著述段階は、組織や他者に依存せずに、自分自身の価値観を明確にできる段階です。この段階にきてようやく、他者を同僚や仲間、協力者とみなします。3段階においては、他者は自己イメージを明確化する手段としてみていません。しかしながら、自分自身の価値観に縛られており、その価値観と異なる価値観から学ぶことができません。

5段階 自己認識段階は、自分自身の価値観の限界に気づき、絶えず、自己を更新し続けます。そのため、他者は自分の考えを広げてくれる存在となります。適度に指摘を求め、自分自身の限界に敏感であることをよしとします。


◆自己肯定感が高くなければ、4段階より上の発達段階にたどり着けない

自己肯定感は自らの持論をつらぬく強さの土台です。自らを信頼し、揺るがず、他者に依存していないという意味で自立した存在ということになります。

そして、この精神的な自立なしに、4段階目の移行はありえません。”発達”という観点でも、やはり自己肯定感は大事なのですね。



人生はなるべくしてなるように展開している

2017年2月8日水曜日

自己肯定感を高める日記の効用

本当に久々になりました。
ライフ・レッスン・ログ。

ブログを書くのをやめてから、1年半。いろいろなことがありましたが、また定期的に更新していこうと思います。

今日は日記を書くことについてです。



◆日記を書くことが自己肯定感につながる

日記を書くことには、あとで過去を振り返るための自叙伝をつくることのほかに効用があります。

自分のことを考える時間が確保できることによって、自分の感情に気づくきっかけができたり、なぜ、そのような感情をもったのか、それが自分の生い立ちと何かしらの関係があったり、自分に対するアンテナが敏感になります。

この自分自身にアンテナが立っている状態は、つまり、ありのままの自分自身を認めてあげる行為であるとも言えます。自分を大切にするということにつながるということですね。ですから、日記を書くことはそのまま自己肯定感を高める作用があるということです。

私自身も、辛い出来事が重なったとき、よく書いてました。自分の心の整理、気づき、新しい自分を作っていくために。


◆現代人は自分を振り返らない

ですが、皆さん、ふりかえってみるとどうでしょうか?
自分のことをそのまま認めてあげる、または、一日を振り返り時間をどれくらいとっているでしょうか?

寝る寸前までテレビを見ている、スマホを見ている、電気を消したら即意識不明。といった感じで、多くの人が自分を振り返る時間を取っていないように思います。

ちなみに、すでにお亡くなりになられていますが、哲学者の今道友信氏は、現代人が自分を振り返らなくなったのは、”電気”が発明されたからであると言っていました。電気がない時代は、夕食を食べて日が暮れてしまったら、床について、今日一日を振り返ってから眠りについたそうです。それと比べるとどうでしょう?いかに、自分の振り返りをしていないか。


◆具体的にどのように日記を書くのか

自己肯定感を高めるための日記の書き方で、おすすめは次の3ステップです。

①何が起こったのか
②どのような感情をもったのか
③なぜその感情をもったのか

まず、今日1日で起こったのうち印象的な出来事を書き出します。事実をそのまま書き出していきましょう。

そして、それぞれの出来事が起こったときに、自分はどう感じていたかを考えてみましょう。嬉しい、悲しい、寂しい、楽しい、どんな感情でも構いません。このステップで重要なのは、書いているうちに、感情のご意見が自分の中で増えていくことです。感情をあらわす語彙をたくさん知れば知るほど、自分の感情に気づきやすくなっていきます。そして、そのまま感情を認めてあげることで、自己肯定感は高まっていきます。

最後に、ではなぜそのような感情をもつにいたったのかを考えてみます。人は思考の癖があって、同じような思考回路、同じような感情反応をしてしまいます。そして、その凝り固まった思考回路や感情反応がネガティブなせいで、生きづらさを感じている人はたくさんいます。

このように自分自身の思考回路や感情反応に気づくことで、ポジティブな物の見方・考え方を身につけるきっかけになっていくのです。

ぜひ、皆さんも習慣にしてみてください。


人生はなるべくしてなるよう展開している。






2015年7月12日日曜日

愛着障害とACと人間関係。『ライフ・レッスン』人間関係のレッスン(3)

親から与えられる影響は想像を超えるほどにおおきい。そんな感覚を強くしています。
最近起きた川崎、名古屋での殺人事件でも、その根底にあるのは愛着障害やAC(アダルトチルドレン)があるのではないか、と取り上げられていました。

愛情に恵まれてこなかった人は、「愛とはしょせん条件つき。何か相手にメリットがないと得られないもの。あるいは、自分が我慢しないと得られないもの。」といいます。とはいえ、愛情に恵まれた人は「愛は無償で当然。パートナーや子供に愛を注ぐ(注がれる)のは当たり前だ。」といい、相手に高いレベルの愛情を脅迫してしまいます。

わたしたちは人間関係を、こども時代の目でみたままにかたちづくる。不幸な人間関係にとりかこまれて育ったこどもは、おとなになっても愛や人間関係にたいする態度に否定的な色づけをしてしまうものなのだ。p101

 こうして、子ども時代に植えつけられた愛情はそのまま大人になったときの人間関係に影響をしてきます。わたしは比較的、恵まれた環境で育ったので、愛は与えられて当然であるかのごとく、ときには傲慢にうつる態度をとってしまったりします。それが相手にとっては不快にうつることもあるのです。


わたしたちは自分にこうといかける必要がある。「こども時代の愛のイメージがいまの愛に投影していないか?これがほんとうにもとめている愛なのか?ほんとうにもとめている関係か?」愛を痛ましくも複雑なものとしてみている人は、その理由を探ってみる必要がある。p101-102
愛をもつれた関係だとかんがえている人、愛を虐待だとかんがえている人、愛はよろこばしい分かちあいだとかんがえている人、愛はだれかを誠実にこころにかけることだとおもっている人、それぞれにその理由がある。そのほとんどは、こどものころの愛の経験の反映に理由をもとめることができる。p102 

わたしは、この数か月で「自分が恵まれていた環境にあった」という事実をあらためて確認をしました。わたしが対峙しなければならなかった相手は、「我慢することが愛だ」という価値観で人間関係を見ていたのですから。そこに価値観の相違があったことは間違いなかったのです。

不幸にして、ある人たち……じつはあまりにも多くの人たち…にとって、愛はしばしば支配的であり、操作であり、ときに憎しみである。しかし、不幸な経験によって形成された狂気に、いつまでもとらわれている必要はない。愛を定義しなおし、 望ましい関係をつくりあげることは可能である。ところが残念ながら、そうしようとする人は少ない。愛にたいするかんがえかたを変えようとせずに、なにか魔法のようなことがおこることを期待しながら、不幸な関係を維持している。問題をとり除くかわりに、その問題を共有している相手をとり除こうとする人のように、問題のなかにとどまっている。p102

愛着障害やAC(アダルトチルドレン)の人たちは、このように愛を悲観的なものとしてみてしまいます。でも、愛はもっとあたたかいものであると、その定義を書き直してみてもいいのではないでしょうか。むしろ、あなたが受けた「愛」は「歪んだ愛情」だったのかもしれません。「真正な愛」ではなかったかもしれません。「歪んだ」愛情のかたちを後世大事にかかえて生きつづける必要はない、そう考えたいものです。

むずかしい関係ではあるが、家族はときに最高の師であり、その相手から学ぶべきことはたくさんある。なぜなら、友人などのように、自分で選んだ関係ではなく、つながりを容易には断ちきれない関係だからだ。問題から逃げずに、どうしても解決法をみつけなければならないところに追いこまれる。そして、あるがままの相手をただ愛するという解決法をみつけることになるのだ。p98

向きあわざるをえない家族だからこそ、ときに痛ましい関係性がつくられてしまうこともあります。それでも、向きあわざるをえないからこそ、そのままの相手をみつめ、自己をみつめ、新しい関係性を育むこともできる。

人間関係はいつでも自分を考える機会を与えてくれます。

それを、学びにかえるか、めんどうなものと敬遠するかは、自分次第なのでしょうね。


過去記事はこちら↓

『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

あなたはあなた。わたしはわたし。「ほんものの自己」のレッスン(4)

人間関係の悩みはうとましい、の嘘。『ライフ・レッスン』人間関係のレッスン(1)

2015年6月24日水曜日

「結婚したら、幸せになれるのに」のうそ。『ライフ・レッスン』人間関係のレッスン(2)

「もう結婚するのにも潮時かも…」、「はやく結婚したいのに、彼がプロポーズしてくれないの」、「もう落ち着こうかな〜」などなど、結婚にまつわるこうしたセリフはだれもが聞いたことがあるのではないでしょうか。

周囲からの目が気になって結婚したり、相手に救いをもとめて結婚したり、適齢期に近づいたから結婚したり、なぜだか、30歳前後になりだすとこの結婚にかんする話題を聞かないことはありません。

わたしたちはロマンチックな関係のなかに癒し、幸福、安全、友情、満足、こころの交流など、多くのものをもとめている。その関係が人生を「確固としたもの」にし、抑うつから解放し、無限のよろこびをもたらすことを望んでいる。ようするに、ロマンチックな関係があらゆる意味で幸福をもたらすことをもとめているのである。多くの人は、とくべつな人さえみつかれば人生のすべてがよくなるとさえ信じている。(88頁)

だれもが結婚することでいくばくか完全な自分に近づくとおもっているものです。ですが、同棲や結婚生活をはじめたとたん、相手は自分を幸せにしてくれないということがわかってきます。それでも、期待をすてることができずに、思いどおりにならない相手を責めてしまいます。そうして、幸せだったとおもっていた関係は徐々に活力を失っていきます。

ロマンチックな関係はある意味ですばらしいものであり、とてもむずかしいけれども魅力的な経験である。そんな関係がもてれば、自分をだめな人間だとおもうこともなく、この世にただひとりの人間としての誇りをもつことができる。ところが、まちがってその関係が自分を「確固としたもの」にしてくれると信じたときに、問題が生じる。人間関係は人を確固とした存在にしたりするものではない。それはおとぎ話の思考だ。(89頁) 

人はひとりでは生きれません。ですが、だれかがあなたを救ってくれることもない。そう痛感しました。冷徹に聞こえるかもしれませんが、わたしたちが幸せになれるかはわたしたち自身にかかっています。そして、わたしたちがわたしたちを幸せにしてあげてはじめて、だれかを幸せにする力が生みだされるのではないか、と思うのです。

独身で不幸な人は結婚しても不幸なのだ。専門職につけない人は、とくべつな人をみつけても、パートナーのいる専門職につけない人にしかなれない。親としての能力が欠けた人は、結婚しても親としての能力が欠けたままだ。そして、だれかとくべつな人がいなければ自分は無価値な存在だと感じている人は、その人との関係のなかでも、いずれは無価値性が外にあらわれる。あなたが求めている全体性や完全性はあなたの内部にあって、発見されるのは待っているのだ。(93頁)

 だれがみても、自分で自分を不幸にしているようにみえる人がいます。幸せになってはならないと暗示をかけられているかのように、みずから幸せを遠ざけている人もいます。

あなたを幸せにする人はわたしではない。あなたを幸せにする人は彼でも彼女でもない。あなたを幸せにするのはあなたでしかないのです。

ですから、わたしたちのなかにある全体性や完全性に、わたしたち自身が気づき、わたしたちを幸せにしてあげなければならないのです。

真の答えは、他にもとめることをやめて自己を完成させることのなかにある。だれか愛する人をみつけようとするのではなく、自分自身を愛されるに値する人間につくりあげていこう。もっと自分を愛するようにと相手にしむける努力を、愛される価値のある自己をつくることにしむけよう。相手からあたえてほしいと望んでいるだけの愛を自分が相手にあたえているかどうか、じゅうぶんは愛をあたえていないのに相手からの愛だけを期待していないかどうか、自分自身に問いかけてみよう。ころわざにもあるように、あなたの船が堅牢でなければ、あなたといっしょに大洋を渡ろうとする人はだれもいないだろう。 (94頁)

逃げずに自分と向き合うことで、自分を見いだし、そのなかに自信を見つけること。それは、むずかしいことですが、不可能なことではありません。僕のまわりでも、そうした奇跡はこの目のまえに起こっているのですから。

実際に、人は変わっていけるということを、まざまざと見せつけてくれた彼らに感謝をして終わりたいと思います。


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『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

あなたはあなた。わたしはわたし。「ほんものの自己」のレッスン(4)

人間関係の悩みはうとましい、の嘘。『ライフ・レッスン』人間関係のレッスン(1)

2015年6月22日月曜日

人間関係の悩みはうとましい、の嘘。『ライフ・レッスン』人間関係のレッスン(1)

わたしたちの悩みのほとんどは、人間関係によるものかもしれません。

家族、パートナー、恋人、上司同僚、友人など、選べる関係もあれば選べない関係もあります。そのなかで、愛や友情をはぐくむというすばらしい経験もあれば、嘘や裏切りなどやりきれない経験もあるでしょう。

いづれにしても、人間関係をぬきに人生を進んでいくことはできません。


人間関係は人生のレッスンを学ぶ最高の機会をあたえてくれるものである。自分はほんとうはどんな人間なのか、なにを恐れているのか、自分の力はどこから生まれるのか、真の愛とはなんなのか、人間関係はそれを発見するための場でもある。人間関係が最高の学びの場であるなどというと、抵抗をおぼえる人もいるかもしれない。なぜなら、人間関係は多くのばあい、なかなかおもうようにならない、ときにはひどくつらい経験だからだ。しかし、だからこそ、学び、成長し、愛し、愛されるための最高の場ともすることができるのである。(85頁)

これまで築いていきた人間関係のあっけない破綻から、それこそ、自分がどんな人間か、なにを恐れ、なにを守るために今の自分がいるのかを考えるチャンスをもらいました。

わたしは、人間関係からどれくらいのものが失われる可能性があり、同時にどれくらいのものを見つけることができるのか、すでにどれほどのめぐまれた人間関係にかこまれていたか、すばらしい人間関係が所与のものであると勘違いしてしまう人のおごりさえ学びました。

もっとも親密な関係からもっとも疎遠な関係まで、それぞれの人間関係に共通する分母があなたという存在である。ひとつの人間関係にたいするあなたの態度……否定的か肯定的か、好意か憎悪かを問わず……、すべての人間関係に反映している。それぞれの関係にじゅうぶんな愛を注ぐか、それとも少ししか注がないか、それを選択するのはあなたなのだ。(85-86頁)

どんな人間関係を築くかは、わたしたちの態度次第です。

わたしたちが今築いている人間関係を所与のものとみなして、「もっと、もっと」と心のなかでさけんでいれば、きっと幸せな人間関係は築けないでしょう。

逆にわたしたちは「もっと、もっと」というゲームをはなれ、日々生かされているのだという意識をもとに、今関係のある人に心を、目をみひらけば、そこに恵みがあるということに気づくことができるのです。

無意味な人間関係、偶然の人間関係などというものはない。配偶者から顔も知らない電話交換手まで、どんな出あい、どんな交際でも、幸福な関係でも不幸な関係でも、幸福でも不幸でもない関係でも、つきあう時間の長短や親密さの度合いのいかんを問わず、そこには意味がある。ものごとを大きな目でみれば、あらゆる人間関係には重要な意味がひめられている。ただすれちがっただけという些細な関係でさえ、そこから真の自己にかんする大きなものを学ぶことができる。出あうすべての人が、わたしたちに幸福や争いや不幸をもたらす可能性をもっている。どんな相手でも、予想もしなかったほどすばらしい愛をもたらす可能性をもっているのである。(88頁)

いじめ、裏切り、浮気や不倫といった最悪の人間関係においてさえも、そこに意味があるということをわたしは学びました。

わたしたちの傲慢さや行きすぎた自己本位性、感受性のなさといった否定的で、ネガティブな気づきもあれば、わたしたちを取り巻く人間関係のなかにはおおくの優しさや配慮、支援をうけていたことへの感謝の気持ちに気づことができるのです。

人間関係は、ときに疎ましいものでもあります。

それでも、わたしたちが構成している人間関係のなかに、ほんものの自己を見つけるヒントが隠されており、自身の否定性を認めることで、よりよい人間に成長していくためのレッスンを学ぶチャンスがあるのです。


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『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

あなたはあなた。わたしはわたし。「ほんものの自己」のレッスン(4)

2015年6月2日火曜日

あなたはあなた。わたしはわたし。「ほんものの自己」のレッスン(4)

前回は、いかにして「役割」が「ほんもののわたし」を隠しているか、そして、「ありのままのわたし」に価値があるということについて書きました。

今回は、まず、実際に「ほんもののわたしたち」を隠している「役割」をとりさっていくためのヒントから紹介していきたいとおもいます。

・その役割は退屈な仕事だったと気づく。「みんなの幸福の責任を感じなくてもいいんだから、いまはとても気が楽だ」
・自分は人をあざむいていたと気づく。「いい人を演じて、好感をもたせるために、みんなをあやつっていた」
・ありのままでいても、人に好かれる自分であることに気づく。
・自分の行動が恐れから生じていたことに気づく。(善人ではないという恐れ、天国には行けないという恐れ、人に好かれないという恐れ)
・報酬を得るために役割を利用していたと気づく。「だれからも愛され、尊敬される人になろうとしていたが、自分はみんなとおなじ、ただの人間だ」
・他人は大いに悩むがいい、それが自己発見への道だ、そうおもっていたと気づく。
・自分の優位性を感じたいために他人の弱点を強調していたことに気づく。
・他人の「破綻」を強調することによって自分の問題を回避していたことに気づく。(33-34頁)

なにか気づくことはありましたか?

個人的には、うえから3つはけっこうおおくの人に何がしかの気づきがあるのではないかとおもいます。それだけに、わたしたちは自分を裏切っているということなのです。すくなくとも、わたしたちだけは「ありのままのわたしたち」を愛してあげたいものです。

もしだれもみていなかったら、自分はなにをするだろうかと自問してもいい。結果をかんがえずに、したいことがなんでもできるとしたらどうだろう?その問いにたいする答えのなかに、真の自己にかんする多くのものがふくまれている。(39頁)

わたしは上記の質問をしてみたときに、さまざまな隠された自己が見えてきました。思った以上に、わたしは怠惰な人間であること。仕事上で、もっとやりたいことがあること。愛する人の近くにもっといたいとおもっていること。などなど。

いづれにしても、わたしたちは自分を偽って生きているのです。


真の自己を発見し、真の自己でありつづけること。ほんとうはなにがしたいのか、なにがしたくないのかをみわけること。その作業は自分自身の経験にゆだねることによっておこなわれる。そのためには、あらゆることはしなければならない。職業の種類から身につける服装まで、よろこびややすらぎが得られるかどうかは、その判断にかかっているからだ。他人の目を意識してなにか価値ある行為をしても、それは自分にとっての価値ある行為にはならない。にもかかわらず、わたしたちの多くはしたいことをするよりもするべきことをしながら生きている。(38-39頁)
真の自己をみつけようとする人のまえにあらわれるのは、そのために必要な作業、つまり、学ぶべきレッスンだ。内部の存在と外部の存在がひとつになったとき、人はもはや自己を隠すことも、恐れることも、守ることもなくなる。周囲の状況を超越したなにものかとして、自己をみるようになる。(42頁)
あなたの本質はもっとも純粋な愛であり、壮大ともいえる完全性である。あなたは自己を癒し、自己がだれであったのかをおもいだすために、地上に生まれてきた。おもいだすべきあなたの本質こそが、闇夜を行くときのみちびきの光である。 (42頁)

 今回で、「ほんものの自己のレッスン」は終わりです。次回からは「愛のレッスン」にはいっていきます。

そして、この「ほんものの自己のレッスン」を学ばなければ、わたしたちは「愛のレッスン」に移行することはできません。

なぜなら、わたしがわたしを偽っているのに、だれかを愛することができるでしょうか。わたしたちがわたしたちらしく毎日を生きることが、結果、充実した人生をおくることができるのです。それは、愛でも、仕事でも、家族でも、すべて共通であるとおもいます。

最後に、わたしが最近もっとも共感している「ゲシュタルトの祈り」を紹介して締めくくりたいとおもいます。



わたしはわたしのことをして、あなたはあなたのことをする。  

わたしは、あなたの期待に応えるために、この世にいるのでは、ない。

 
あなたも、わたしの期待に応えるために、この世にいるのでは、ない。  

あなたはあなた、わたしはわたし。  

もし偶然にお互いが出会うことがあれば、それは素晴らしいこと。  

けれどもし出会うことがなければ、それはそれで、いたしかたがないこと。

─────フレデリック・パールズ



『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしたちは、日々、人生のレッスンを見過ごして生きています。時間にゆとりがある人は、「退屈だ、なにかおもしろいことないかな?」とぼやき、時間に追われている人は、立ちどまって考えることすらできていません。

人生には、まなぶべきレッスンがあります。そう言うわたしも、今こうした苦境に身をおくことがなければ、気づくことはできなかったでしょう。忙しさにかまけて、人生のレッスンを見過ごしてきた。今はそう思うことができます。

レッスンを学ぶことは成熟していくことにやや似ている。とつぜん幸福になったり、力がついたり、裕福になったりすることはないが、周囲の世界にたいする理解が深まり、自分自身とのおりあいがつけやすくなる。人生のレッスンを学んだからといって人生が完全なものになるわけではないが、そうなるはずだったような人生をみることには確実につながる。(19-20頁)

生きていてなにかむなしさを感じる。パートナーとの関係がマンネリしてきた。仕事にやりがいを感じることがすくない。子育てにつかれてしまった。わたしたちは、人生における停滞を感じたとき、そこには人生のレッスンがかくれています。そして、人生のレッスンを学んでいくことこそが、人生の充実につながるのではないか、そんな想いをつよくしています。

わたしたちは自分についてあたえられたレッスンを学ぶために地上に生まれてきた。しかし、「あなたのレッスンはこれだ」と教えることのできる人はだれもいない。それをみつけることが、人生という個人的な旅の一部なのだ。その旅の途上で、獲得すべき多くのものがあたえられることもあれば、ほんのすこししかあたえられないこともあるだろうが、その人の手にあまるほどのものがあたえられることはけっしてない。(20頁)

「ライフ・レッスン」をみいだすには、わたしたちのこころが世界にひらかれていなければなりません。意識的にみつけようとしていなければ、「ライフ・レッスン」は人生の終末にしかおとずれることはないのかもしれません。

喪失に直面したとき、われわれのクライアントたちは、重要なのは愛だけだったということに気づいた。じつは愛こそは、われわれが自由に御し、身につけ、もち歩くことができる唯一のものである。クライアントたちは「彼方」に幸福をもとめることを断念した。そのかわり、かれらは自分がすでにもっていたもののなかに、自分自身であることのなかに豊穣と意味をみいだす方法を学び、すでにある可能性を深く掘りさげる方法を身につけた。(21頁)

なにか大事がおきなければ、わたしたちは人生からのメッセージに気づくことができません。わたしたちは無意識にそうしたおとし穴にはまりつづける生き物なのかもしれません。わたしはひとつの愛を喪失しましたが、そうした大事がおこって、ようやく、人生からのメッセージに、あるいは、ほんとうの愛とは何かということに想いをめぐらすようになったのです。


どんな状況であれ、最悪の事態に直面したときに、人間は成長する。状況が最悪になったときにこそ、最良のものをみいだすことができる。そのレッスンのほんとうの意味がわかったとき、幸福で意味のある人生もみいだすことができるようになる。完璧ではないが真正の人生がみつかり、十全な生をまっとうすることができる。(22頁)

わたしとおなじように、もしあなたが人生の落ち目にあり、苦悩にさいなまれているなら、ぜひ、人生からのメッセージに心を澄ましてほしいと思います。厳しい苦難だからこそ、そこには強いメッセージがあるはずです。

悪いときはとことん悪い。もしかしたら、そうかもしれません。毎日毎日胸が締めつけられるような想いは誰もが経験したくないものです。

それでも、最悪がなければ最良も見いだせないということを心にとどめておきたいものです。白と黒ではわりきれない。それが、人生なのかもしれません。そして、わたしたちがまなぶべきレッスンにどのような態度をとるかによって、人生の意味はかわってくるのだ、と心にきざみたいと思うのです。


『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)


2015年5月27日水曜日

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

「あなたは何者ですか?」と聞かれたら、あなたはなんと答えるだろうか?

どこそこに勤めている …というものです。どこそこ出身の…というものです。一児の母をしています…というものです。きっと、いろいろな答えがかえってくるだろうと思います。

この答えは「ほんもののあなた」でしょうか。


たいがいの人は人生のさまざまな場面で多くの役割を演じている。わたしたちはその場におうじて役割を変える方法を身につけているが、役割という殻の内側、つまり真の自己でありつづける方法を知っている人は少ない。…問題はその役割が真の自己にとってどう役立ち、どんな矛盾をもたらすかに気づいているかいないかにあるのだ。(30頁)

 わたしたちがあらためて意識しておきたいのは、その役割が「ほんもののあなた」にどのような影響をあたえているか、ということです。わたしがしるかぎり、あまりのおおくの人たちが、「役割」に「ほんものの自己」が押しつぶされています。

2年前、わたし自身、仕事でおおきなスランプに陥ったことがありますが、今思いかえすと「役割」の影で「ほんもののわたし」が呼吸困難におちいっていたとおもいます。結局は、ありのままのわたしでいることがもっとも効果的に生きれる秘訣なのかもしれません。

さまざまな役割をたまねぎの皮のようなもので、皮をむいていると多少の涙がでるように、役割の内側にある真の自己を発見するには、多少の苦痛がともなうこともある。(30頁)

とはいえ、「ほんもののわたし」を発見するということは、わたしたちの短所や欠点をみつめるということも含まれているわけですから、多少の苦痛がともなうこともあるのです。

内なる否定性の存在をみとめることは人間に必須の条件である。その存在をみとめさえすれば、そこにはたらきかけ、それを手放すことも可能になる。人生のレッスンを学んでいくにつれて、さまざまな役割の層がひとつずつはがれていき、うち奥にひそむ、自分にとって好ましくないものがみえてくる。みえてきたものが自己の本質、自分の正体であり、それが悪であるというわけではない。ただ、自分では気づかなかった一面があったというだけのことだ。(30-31頁)

わたし自身、この4ヶ月で起こった悲劇のなかで、あらためて自己をみつめかえしましたが、やはり、短所や欠点はみえてくるものです。そして、それらを直視すること。反省から学びに昇華させ、短所や欠点をもったわたしそのものを認めてあげること。「ありのままのわたしたち」を素直に認めてあげることがわたしたちが生きるうえで重要ではないかと思うのです。

人生のいかなる局面においてもつねに並はずれていい人であるとしたら、それはまやかしであり、にせものである。人生の振り子が中心点にもどるには、軌道の一方の端と他方の端のあいだを何度も往復しなければならない。そして、振り子がゆれるたびに、人は不機嫌になる。真の自己がみいだせるのは振り子が中心点にあるときだけであり、そのときの自分はなにかを得るためにあたえるような人ではなく、慈悲心から生まれた、ほんものの「いい人」になっている。(31頁)
ほんものの自己に立ちかえることは、人間の自己というものの完全性をひきうけることである。そこには、わたしたちが隠したがる暗い側面もふくまれているかもしれない。人間は善なるものに惹かれる存在だとおもわれがちだが、じっさいに惹かれているのは善でも悪でもなく真正なもの、ほんものなのだ。その証拠として、わたしたちは余分な飾りをつけて真の自己を隠している人よりも、偽りのない人に好感をいだく。(44頁)

誰にたいしても支援的で、笑顔をふるまい、ぜったいに「NO!」といわない、いわゆる「いい人」がいます。著者は、それは「まやかしであり、にせものである」といっています。

わたしは、「人生、逆こそ真なり」と考えるようになりました。

「いい顔」するから、ほんとうの友情や愛情にめぐまれない。「いい顔」するから、誰かに嫌われる。「いい顔」するから、信頼されない。これが、「人生のパラドックス」という真実。

何かをほしがらなくてもいいのです。そのままのわたしたちが、完全性であり、全体性であり、唯一無二の価値ある人間なのですから。


『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

2015年5月19日火曜日

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

前回は、人生からのメッセージに心を澄ませること、最悪のなかに最良をみいだすことができることを学びました。

わたしはひとつの重要な愛を失ったからこそ、それまでも変わらずにあったたくさんの愛に気づくことができました。たくさんの愛に生かされていたことに気づけたからこそ、感謝をおもいだすことができたのです。

大切なのは、「最悪の事態」を直視することです。恥も外聞もなくなるまで悩みぬき、自分自身を見つめ、ほんものの自己を知るようになるのです。

病気とたたかっている人をみていると、自分とはなにかを知るためには、ほんものの自己ではないものをすべて脱ぎすてなければならないということがわかってくる。死にゆく人をみるとき、わたしたちがみているのは、もはやかれらの欠点でも、過ちでも、それまでは関心の的だった病状でもなくなっている。みているのは、ただその人だけだ。というのも、生の終局にあって、その人は以前よりもずっと純粋に、正直に……まるで赤ん坊のように……その人自身になっているからだ。(24頁)

最悪の状況に直面してはじめて、わたしたちはなにかできることがあったのではないかと、やっと反省しはじめます。こうしなければよかった、ああしておけばよかった、なぜあんなことをしたのか、こうした内省をすすめていくことでほんものの自己がみえてきいきます。

その人の真の姿をみることができるのは生のはじまりとおわりだけなのか?平凡な真実が姿をあらわすのは極限状況のときだけなのか?それ以外のときは、真の自己がみえないのか?おのれの真の自己を発見し、他者のなかにもその人の真正の自己をみること……それが人生の第一のレッスンである。(24頁)

わたしがこの4ヶ月に読んだ30冊もの心理学の書籍のなかにも、この「自分自身をつらぬく」ことの重要性が書かれていました。

「わたしたち」が「わたしたち」らしく生きるからこそ「わたしたち」が存在する。「誰か」の期待や求めに応じようとするから、「わたしたち」は他の「誰か」になりかわり、「わたしたち」の存在がみえにくくなるのです。「わたしたち」が他の「誰か」になりかわってしまったら、ぜったいに「ああ、わたしは生きた!」とは言えないのです。

すでにあなたのなかにいる偉大な人物も、姿をあらわす準備ができている。どんな人でも偉大さの萌芽をもっている。「偉大な」人物が、ほかの人たちのもっていないものをもっているというわけではない。「偉大な」人物はただ、最良の自己のまえにたちはだかる余分なものを脱ぎすてているだけなのだ。(25頁)

わたしたちのなかには必ず偉大な人物がいる、と著者はいいます。きっと、偉大な人物とは「ありのままのわたしたち」ということなのでしょう。では、「ありのままのわたしたち」を阻んでいる「余分なもの」とはなんなんでしょうか。次回は、その「余分なもの」をかんがえていきたいと思います。




『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

2015年5月7日木曜日

『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

2015年はじまって4ヶ月あまり。

苦悩に満ちた時間に今ひとつの答えを出そうとしています。

人生はあまりにも気まぐれなものです。嫌がらせとしか思えない試練がどこからともなく突然音もたてずにやってきます。心はむしばまれ、身体はやせ細り、根性だけではもう立つことさえもままならない、そうした経験が誰にでもいちどはあるはずです。

苦悩や恐れからわたしたちは逃れることはできません。

けれども「もうこれ以上はムリ。」、「もうどうにでもなれ。」、限界のギリギリまで悩み、そこに意味をみいだすことができたなら、これまで見えていなかったこと、つまり、愛、人間関係、本当の自分、怒り、生きる意味が見えてきます。

人生はわたしたちのとる態度にかかっています。苦悩さえもそこに意味をみいだすことができるなら、わたしたちはそこから学ぶことができ、人生を豊かにすることができます。

こうしたことをおこなっていくことは、本当にむずかしいことです。たとえ、心のなかでそう思っていたとしても、何かがわたしたちの邪魔をします。

それでも、わたしたちはチャレンジしていくかどうかを選ぶことができます。どう生きていくのか、それはわたしたちの選択にかかっているのです。

わたしは、2015年おおきな喪失を経験しました。この4ヶ月苦悩に満ち、精神安定もままならず、日々を耐えしのんできました。そのなかで読んできた30冊にものぼる心理学の書籍は、それでも、わたしたちは、自分次第で幸福を選びとることができることを教えてくれます。

今日から書いていくBlogは、エリザベス・キューブラー・ロス著の『ライフ・レッスン』をなぞりながら書いていきます。エリザベス・キューブラー・ロス氏はスイス・チューリッヒ出身の精神科医で、死にゆく人の心のプロセス(経過)を説いた名著『死ぬ瞬間』の著者として知られる人物です。死にゆく人が人生の終末に見いだしたもの、それを今を生きている人への教訓として書かれたのが『ライフ・レッスン』です。


この4ヶ月にわたるわたし自身の人生のレッスンを「ラスト・レッスン」として書いていくつもりです。わたしがこの4ヶ月あまりで体験したこと、学んだことの集大成であり、わたし自身のこれからの肥やしにすることが目的です。

願わくば、わたしの苦悩や学びが、誰かの生きる勇気となり、励ましとなり、あかるい未来を切り拓いていくためのひとつのともしびになることができれば嬉しいです。

人生のレッスンとは、みずからの卑小性にはたらきかけ、否定性をとりのぞいて、自己のなかにも他者のなかにもある最良のものをみいだす作業にかかわるものだ。人生の暴風にも似たそのレッスンは、わたしたちを本来のわたしたちに立ちかえらせてくれる。わたしたちはたがいに癒しあい、また自己を癒すために地上に生まれてきた。それは身体症状の回復という意味での癒しではなく、はるかに深いレベルでの癒し、精神の、そしてたましいの癒しである。(8頁)

 人生の終末に「ああ、わたしは生きた!」というために、わたしたちが今できることをこれから考えていきたいと思います。


絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)



人生を決めているもの。住宅と街並みとぼくの視線から考える人生論。

  家づくりを検討しはじめて約2ヶ月。あれだけ回避していたローンのリスクを受け入れて、家を建てることに決めた。日本の一戸建ての寿命が30年のところ、90年もつ家を建てることを知ったのが大きなきっかけだった。90年もてば3歳の息子も死ぬまで住むことができるだろう。それならローンを組...