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2017年8月25日金曜日

嫌われる勇気。かんたんな雑感。

後れ馳せながら、一時期話題になった『嫌われる勇気』を読んだ。
嫌われる勇気というタイトルからはその真意がわからなかったが、かなり興味深い内容だった。ぼくなりに感じたことをまとめておこうと思う。


他者に嫌われないために生きる

人目が気になって仕事に集中できないとか、気をつかって疲れるとか、ストレスがたまるってお話はよく聞く話である。

また、仕事の目的が如何に怒られないか、嫌われないか、如何に優秀そうに見せて気に入ってもらえるかに終始している人は多い。仕事の目的のベクトルが自分に向いているから、なかなか成果に結びつかない。

頑張ってはいるけど、いつまでも報われない。とかく、そういう人は人生に疲れ切っていたりする。

嫌われないために自分を偽る

そして、生きることが嫌われないためになってしまうと、たいてい、そこについて回るのが、自分を偽るということだ。

ムカつくけどいい顔する。構ってほしいけど強がる。できないと思うのに、できるという。などなど。どんな反応をするかは人にもよる。

つまり、感情と行動が一致してない状態。これが続いていくと、もちろんのこと、疲れていってしまう。自分を偽って演技をし続けなければならないからね。

そして、生きづらい人生がずっと続いていく。

嫌われる勇気をもつことで自由になれる

そこで登場するのが、〈嫌われる勇気〉という考え方なんですね。

演技をしてストレスを溜めたくない、もっと自由に生きたいのなら、言行一致させるほかありません。

ですが、そうするともちろん自分の意見や主張に賛同しない人や、反対してくる人もいるでしょう。ここで、反対する人がいたとしても、彼らは彼ら。私には私の意見があるのだ、と割りきる勇気のことを〈嫌われる勇気〉と言っているんですね。

僕たちは〈嫌われる勇気〉をもつことで、本当に自由に生きることができる。他者に支配されない、干渉されないような人生を。

このように、自己実現を促すような支援をしていきたい、それが僕の最近のねがいです。

なんだかモヤモヤしている方。
つらいことが多いと嘆いている方。
いつも不安に苛まれている方。
少しでも自分を変えようと思う方。

そうした方に、お勧めしたい一冊ですね。


人生はなるべくしてなるように展開している。

2015年7月12日日曜日

愛着障害とACと人間関係。『ライフ・レッスン』人間関係のレッスン(3)

親から与えられる影響は想像を超えるほどにおおきい。そんな感覚を強くしています。
最近起きた川崎、名古屋での殺人事件でも、その根底にあるのは愛着障害やAC(アダルトチルドレン)があるのではないか、と取り上げられていました。

愛情に恵まれてこなかった人は、「愛とはしょせん条件つき。何か相手にメリットがないと得られないもの。あるいは、自分が我慢しないと得られないもの。」といいます。とはいえ、愛情に恵まれた人は「愛は無償で当然。パートナーや子供に愛を注ぐ(注がれる)のは当たり前だ。」といい、相手に高いレベルの愛情を脅迫してしまいます。

わたしたちは人間関係を、こども時代の目でみたままにかたちづくる。不幸な人間関係にとりかこまれて育ったこどもは、おとなになっても愛や人間関係にたいする態度に否定的な色づけをしてしまうものなのだ。p101

 こうして、子ども時代に植えつけられた愛情はそのまま大人になったときの人間関係に影響をしてきます。わたしは比較的、恵まれた環境で育ったので、愛は与えられて当然であるかのごとく、ときには傲慢にうつる態度をとってしまったりします。それが相手にとっては不快にうつることもあるのです。


わたしたちは自分にこうといかける必要がある。「こども時代の愛のイメージがいまの愛に投影していないか?これがほんとうにもとめている愛なのか?ほんとうにもとめている関係か?」愛を痛ましくも複雑なものとしてみている人は、その理由を探ってみる必要がある。p101-102
愛をもつれた関係だとかんがえている人、愛を虐待だとかんがえている人、愛はよろこばしい分かちあいだとかんがえている人、愛はだれかを誠実にこころにかけることだとおもっている人、それぞれにその理由がある。そのほとんどは、こどものころの愛の経験の反映に理由をもとめることができる。p102 

わたしは、この数か月で「自分が恵まれていた環境にあった」という事実をあらためて確認をしました。わたしが対峙しなければならなかった相手は、「我慢することが愛だ」という価値観で人間関係を見ていたのですから。そこに価値観の相違があったことは間違いなかったのです。

不幸にして、ある人たち……じつはあまりにも多くの人たち…にとって、愛はしばしば支配的であり、操作であり、ときに憎しみである。しかし、不幸な経験によって形成された狂気に、いつまでもとらわれている必要はない。愛を定義しなおし、 望ましい関係をつくりあげることは可能である。ところが残念ながら、そうしようとする人は少ない。愛にたいするかんがえかたを変えようとせずに、なにか魔法のようなことがおこることを期待しながら、不幸な関係を維持している。問題をとり除くかわりに、その問題を共有している相手をとり除こうとする人のように、問題のなかにとどまっている。p102

愛着障害やAC(アダルトチルドレン)の人たちは、このように愛を悲観的なものとしてみてしまいます。でも、愛はもっとあたたかいものであると、その定義を書き直してみてもいいのではないでしょうか。むしろ、あなたが受けた「愛」は「歪んだ愛情」だったのかもしれません。「真正な愛」ではなかったかもしれません。「歪んだ」愛情のかたちを後世大事にかかえて生きつづける必要はない、そう考えたいものです。

むずかしい関係ではあるが、家族はときに最高の師であり、その相手から学ぶべきことはたくさんある。なぜなら、友人などのように、自分で選んだ関係ではなく、つながりを容易には断ちきれない関係だからだ。問題から逃げずに、どうしても解決法をみつけなければならないところに追いこまれる。そして、あるがままの相手をただ愛するという解決法をみつけることになるのだ。p98

向きあわざるをえない家族だからこそ、ときに痛ましい関係性がつくられてしまうこともあります。それでも、向きあわざるをえないからこそ、そのままの相手をみつめ、自己をみつめ、新しい関係性を育むこともできる。

人間関係はいつでも自分を考える機会を与えてくれます。

それを、学びにかえるか、めんどうなものと敬遠するかは、自分次第なのでしょうね。


過去記事はこちら↓

『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

あなたはあなた。わたしはわたし。「ほんものの自己」のレッスン(4)

人間関係の悩みはうとましい、の嘘。『ライフ・レッスン』人間関係のレッスン(1)

2015年4月1日水曜日

自分の気持ちがわからない人の心理 ~自分の心の声に耳を傾ける~

自分の気持ちを表現できない人がいる。

深い話ができない、心のやりとりができない。本当にわかりあえる人がいない。

なぜ、そうなってしまうのか。

端的に言えば、それは「自分がない人」たち。自分の気持ちを表現できないのではなく、そもそも自分というものがない。それは「自分=他者」だから。

人の気持ちをくみ取ることが自分の原動力になってしまうから、自分を形成することができない。自分が育ってこない。だから、何かの議題に対する意見は言えても、自分の心や感情を表現することはできない。なぜなら、「自分=他者」だから。

「自分」はいつも二の次。「他者」が最初。自分の気持ちを押し殺して、「他者」に貢献しよう、好かれようとするから、どんどん「自分」は忘れ去られていく。気づいた時には、自分がどこにいるのか、本当の自分は何者か、何をやりたくて何をやりたくないのかがわからなくなっている。

自分の気持ちがわからない人とは、生きづらさを抱えている人たちのことなのだ。



■自分の気持ちがわからなくなる背景には「自信のなさ」が存在する


自分の気持ちがわからなくなる、表現できない、口にすることが憚られる人は自分に自信がない人が多い。「こんなこと言ったら馬鹿にされるのではないか、嫌われるのではないか」、「こんなことしたら怒られるのではないか」といった心の声が、本人が認識していてもいなくても、心の底で渦巻いている。

要は自分がどこか嫌いなのだ。

どこかで自分を責め、自分を憎み、敵意を抱いている。

こんな自分だから、誰かに尽くすことで認めてもらいたいというのが彼らの原動力になっている。八方美人という言葉があるが、それは彼らのことを指している。人にいい顔をすることで、気に入られようとする。本心は見せずに、相手にあわせた行動をする。



■自信のない人は、「いい人」に見えて、本当は敵意を抱えている


自分を成りたたせるために、他者に尽くすということは非常にエネルギーを要する。いつも他人の顔色をうかがい、アンテナを高く張りつめている。結婚していても、そういう人には心の休まる時間がない。だから、疲れやすい。でも、誰かに何かをしていなくては不安で、エネルギーが尽きるまでにせっせと行動している。

そういう人はたいてい「いい人」だ。配慮があって、優しい、みんなから好かれている。でも、心の中には敵意と憎しみが渦巻いている。

彼らは「いい人」を「演じる」ことで、他者からの見返りを求めてる。称賛されたり、褒められたり、いつも自分を認めてもらいたいという欲求に駆られている。称賛されていたり、褒められていたりしているうちは彼らの心は満たされるが、それがなくなると途端に欲求不満になる。「わたしはこんなに頑張っているのに」、「わたしは自分をここまで犠牲しているのになんでわかってくれないの」といった心の声が湧き出て、それは敵意や憎しみに変わっていくのだ。



■それでも敵意や憎しみは押し殺され、声になることはない


自分を押し殺すというのは日本人の美徳のように感じられるかもしれないが、それは精神衛生上、あるいは心的発達という観点からすれば害悪でしかない。

押し殺した自分の感情は敵意や憎しみに変わる。それでも、相手に嫌われたくない、認められたいという欲求が強くて、敵意や憎しみさえも声に出すことができない人もいる。だから、その心の声は内側に向く。自分を責めるからますます自分を責める、ますます自信がなくなる、こうしたスパイラルから抜け出せなくなる。

感情はカタルシス。自浄作用だ。吐き出さなければ、自分が綺麗になることはない。悪意や憎悪にまみれていってしまう。

「いい人」の多くは、外見からはわからないが、心の底で敵意や憎悪に満ちているのだ。



■「いい人」を演じているうちは、心から好かれることもない


「いい人」は一見、誰からも好かれる人のようにみられることが多い。それは事実だろう。しかし、質的にみれば表面的に好かれているだけだ。「いい人」は自分を見せない。だから、本当の意味での人間的な魅力を感じることができない。

むしろ、そういう人たちは騙されてしまうことも多い。相手に認められようとするあまり、相手の善悪を判断する能力が養われていない。甘い言葉を言ってくれる人は「大好き」となってしまうから、簡単に騙されてしまう。逆に、彼らを思って厳しいことを言ってくれる人のことは「こんなに頑張っている自分を批判してくる嫌な奴」となってしまう。だから、一向に自分が成長していくことはない。

彼らを取り巻いているのは、表面的でうわべだけの付き合いだ。でも、取り巻きが多いことで癒されているような気になっている。パーティーや乱痴気騒ぎの好きな人はこうして自分を慰めている人が多い。でも、そこに心のやりとりはいっさいない。



■心のやり取りができないから親密な関係にある人が離れていく


友人や同僚との関係性においては、表面的でうわべだけの付き合いでも許されるかもしれないが、恋人やパートナーとなるとそうはいかない。一緒に生活をともにしていこうとすれば、ライフイベントのどこかで重要な意思決定をしていく必要が必ずでてくる。

そうした時に彼らは自分の意見を言うことができない。お互いの意見を言って妥協するという建設的な人間関係を構築するプロセスを踏むこともできないし、もう一方が何かしらの意思決定をすることになる。

そこで何が起こるか。彼らは心の底で「不満」を抱いてる。意見を言わないと決めたのは自分なのに、相手が決めた意思決定や方向性に心から納得できないのである。そうした不満を隠し通せる人もいれば、隠しきれない人もいる。

一番やっかいなのは、隠しきれない人が不満を行動であらわしたりすることた。急に態度を硬化させる相手が何を考えていて、なぜ、そうした態度を取るのかもわからない。聞いても彼らの口からそれが表現されることはない。何となく相手にとってみれば、「心のやり取りができない人」、「急に態度を硬化させるヒステリー」のように見えてしまう。

結局は、最初は何とか理解しようと思っていた「心ある」人が彼らから去っていく。



■心の負債は取り返しのつかない事態を招く


心の負債は徐々に彼らの心をむしばみ、人間関係をむしばみ、なぜかわからないけど物事がうまく進まなくなってしまう。こうなると何が何だか余計にわからなくなってしまう。「自分はこんなに頑張っているのに」という気持ちも果てには弱くなり、未来に希望が見いだせなくなるのだ。

この先にどういう事態が待っているのかは、言及はしないでおこう。皆さんもうすうす感じていることだろう。

心の負債はすべてを八方ふさがりに追い込んでしまう爆弾であることを理解してほしい。そして、抱えた負債は複利で大きなり、気づいた時には返済不能となってしまう。




■そのままの自分を認めてあげあること


これまでの研究によると、彼らは「無償の愛」を受けたことがないなどと言われる。ありのままの彼らを愛してくれる人がいなかったのだ。我慢をすることでしか愛されなかった過去がある。

そして、この呪縛から抜け出すためには、自分自身がまず自分を認めてあげることだ。自分の心を聞いてあげること。そのままの自分を自分が好きになってあげること。

大人になって「無償の愛」を求めることはほとんど不可能だ。可能だとすれば、心あるパートナーに頼るしかいないだろう。だからこそ、自分が自分をほめてあげる、認めてあげる、好きになってあげることが必要なのだ。

「こんなに生きづらい人生をよく頑張って生きてきたね」、「今日も一日お疲れ様!よく頑張ったね」、と自分に声をかけてほしい。



■少しずつでも心の声を発信していく


いきなり自分の気持ちを他者に言えないという人は、「出さない手紙」を書くことをおススメしている。日記でもいいだろう。まずは、自分の心の声を素直に書いて、自分自身を再発見する必要性がある。自分を再発見することができなければ、いつまでたっても「自分=他者」になってしまうのだから。

注意してもらいたいのは、自分が感じたくない感情も出てくるかもしれない。その時に、それをありのまま認めてほしいということだ。「いい人」は敵意や憎しみといった心の負債が渦巻いている、それでもそれが自分であるということを認め、それを自分が受け止めてあげること。そこからがスタートになる。

そして、自分を再発見できら、自分の気持ちや感情を少しずつ発信していく。怖がることはない、もし、自分の気持ちを発信して聞いてくれない、あるいは、馬鹿にするような人がいたら、そういう人たちはもともとつき合う必要のない人たちだからだ。自分の心の声に耳を傾けてくれる人と付き合うこと。時に、耳に痛いことを言ってくれる人を信頼すること。

そうすることで必ず道は開ける。




自分を嫌いになる人は、他者も嫌いである。

自分を許せない人は、他者も許せない。

自分を愛せない人は、誰も愛せない。


まずは、自分が自分を認め、好きになってあげること。





思想を体現する。

2015年3月19日木曜日

信念とバカのあいだ。愛着障害を超えて。

強すぎる信念をもつことは、一方で周りから見るとバカに思えるということ。

誰かしら信じていることは持っていると思うのだけど、これに「念」がはいるとまた一段と力は強まります。




僕の信念は、「人は変わることができる」ということです。どんなに辛い環境でも、どんなに年をとっても、変わる必要さえなくても、どんなに重い罪を犯しても、「環境」が変われば人は変わっていけるということ。

そんな僕にとっては明るい信念、希望でも、人は変わらない、変わりきれない、変えようと思うと反発する、という人もいる。そして、どうしようもない相手を切り捨てていく。

これって本当に僕は悲しいと思うんですよ。

人の行動や心理ってゆーのは、もう幼少期に確立されてしまう。最近は、川崎や名古屋での殺人で「愛着障害」が取り上げられました。

生まれた環境によって、人が高い自信を持てるかどうかは左右されてしまうんですから。

愛着障害は、子供の頃、伸び伸びと愛されて育つことができなかった人たちです。親がいなくてさみしい想いをしたり、虐待を受けたり、逆に過干渉な親に育てられてしまった人たちです。

川崎、名古屋の加害者は実はもともとは「愛されなかった」という被害者だったんですね。悪いことをしてしまう人はたいていの場合、根底に自己無価値感を抱えてる。それは、「よく愛されなかった」という愛情飢餓感からきている。本当は1番愛に飢えているさみしい人なんです。

こういう背景に僕は思いを馳せる。

だから僕はどんなに人が怖くても、人に裏切られても、言うことを聞かなくても、話さえ理解してもらえなくても、きっと人を信じて支援していくのでしょう。

きっと、人間不信の人からしたら僕はバカでしょう。なぜ、自分が傷つくことも覚悟でダメ人間に寄り添うのか、と。

でもね、人を信じれなかったら何を信じるんですか?

モノ、技術、情報?

全部感じ取るのはあなた自身。

人間ですよ。



信念とバカのあいだ。


愛着障害を超えていく。



思想を体現する。

2015年2月25日水曜日

愛着障害を乗り越えて。 ~安全基地( Secure Basement )~

■第三者が愛着修復のカギ

愛着障害を乗り越えていくためには、第三者のかかわりが不可欠だ。その第三者が、親がこれまでにしてくれなかったことを、一時的に、場合によっては数年単位、一生つきあうつもりで肩代わりすることが求められる。

そうして、傷ついた愛着を少しずつ修復し、安定型の愛着を持てるようになるのだ。




■安全基地という概念

そして、その第3者、特に相手のパートナーがとるべき役割として重要なのが、安全基地(Secure Base)という概念だ。

安全基地とは、いざとなったら頼ることができ、守ってもらえる居場所だ。そして、外の世界を探索するためのベースキャンプでもある。


安全基地(Secure Base)は帰りたくなったら戻れる場所だが、いつもそこに縛られる必要はない。良い安全基地になるためには、本人自身の主体性が尊重され、彼らの求めや必要などにこたえるというスタンスが基本なのである。

安全基地は彼らが傷つくことを守り抜くためのものではない。

むしろ、安全基地(Secure Base)は、本人が望めば、傷つく可能性があっても自由にさせ、傷つき戻ったときに受容するという態度である。あくまでも、彼ら自身の主体性を尊重するということだ。

安全基地が持てない障害といえる愛着障害を克服するためには安全基地がぜひとも必要なのだ。


■絶え間ない愛情を注ぐこと

幸いにも、安定した愛着の持ち主に出会い、変わらぬ関心と愛情を注ぎ続けられた人は、徐々に愛着の傷が修復される。愛着障害を克服する最大のポイントは、安定した愛着により、変わらない愛情を注ぎ続けられるということなのだ。

支える側はこれまで述べたことを意識して向き合うこと。


■よい安全基地の条件

よい安全基地の条件は4つある。①安全感の保証、②感受性、③応答性、④安定性である。支える側は、とにかく相手が安心を感じられる場所でいよう。そして、相手の心の機微をよみとり、求められたらすぐに手を差し伸べられるようにしよう。そして、最後に、傷が癒えるまで安定的に支え続けよう。



この数日間、愛着障害を考えてきました。おそらく、結婚生活、仕事、友人との関係という人を取り巻く3大要素の中で、この問題は大いにかかわっていると思います。その問題は、そうたやすくは修復できない。そして、その原因の発端は生後、1年半のうちに形成されるもの。引き続き注目していこう。




思想を体現する。

2015年2月24日火曜日

人から離れたい、人が疎ましい人。 ~回避型の愛着障害~

■回避型愛着障害が少子化につながる

愛着障害の”回避型”は、不安が強いとか人を求めすぎるというよりは、親密な信頼関係や持続的な責任避ける傾向が強い。

だから、結婚とか子供をもうけるといったことに尻込みしてしまう。これは、生物学的な営みに影響を与えるという意味で、少子化にも通じるところだと思う。




■愛する、愛されることを回避する

愛着障害の”回避型”の人は、周囲の人間からよそよそしく映る、そして、冷たい。うまく愛されなかったことが心の傷となり、では、愛されること、親密になることを避けてしまおうというのが、”回避型”になってしまう背景だ。

他人は当てにならないと思っている傾向が強いのもそのせいだ。


だから、問題やトラブルが起きてもひとりで抱え込んでしまい、人に相談したりしようとしない。でも、愛着障害の”回避型”の人も強いわけではない、結局、その状況や問題そのものから逃げてしまおうという結論になってしまうのだ。そして、ひとりで心を閉ざし、建設的な問題解決に取り組めない。

情緒的な面をおさえることは強みになることもある。実際、”回避型”は悩みがあっても仕事や趣味に集中することができる。だから、情緒的な問題がからまないことのほうが向いている。


■感情を抑えるから自己開示ができない

これだけ自分の感情に抑圧しているため、もちろん自己開示や感情表現が苦手である。

愛着障害の”回避型”の人は、「自分の気持ちを言ってみて」「自分が感じたことを話しなさい」と言われると、とたんに言葉を失ってしまう。自分の感情さえわからなくなっているケースも多い。

親からの共感的な応答が不足した状態で育ってしまったということがそれに起因している。

実際、それは”回避型”の人にも影響を与えている。”回避型”の人は実は他者の感情をただしく読み取り、それに共感をおぼえて認めるという力が弱い。それは、親が自分自身の気持ちを共感的に映し出してくれなかったことによって、感情というものを学ぶ機会が失われてしまったから。


■自分が無力であることを学習する

人は傷ついた状況を回避する修正をもつということを忘れてはならない。マーティン・セリグマンが言った「学習性無力感」も同じだ。傷つけば傷つくほど、その人は失敗を恐れ、自分から愛を求めるようなことはしなくなる。

これは少子化を代表とした社会の問題に直結すると思うのである。




思想を体現する。

2015年2月19日木曜日

人から好かれたい、人が怖い人。 〜不安型の愛着障害〜

■人を過剰に求めてしまう人

愛着障害の”不安型”は、誰かの支援や支えを必要としたときに、それを過剰に求めてしまう。ずっとそばにいてれたり、話をしてくれないと不安でたまらなくなる。

その理由は、”不安型”の人は、ネガティブな記憶が過剰に思い出される一方で、ポジティブな記憶がなかなか活性化しないことによる。




■要らなくなったら急に敵意をむきだす

また、”不安型”の人はパートナーからの支えが必要としているうちは怒りが抑圧されるが、必要としなくなった途端、怒りが爆発するという傾向がある。嫌われることが怖くなくなったから、急激に敵意が生じるのだ。

なぜなら、純粋に相手を求めていたのではなく、自分を守るためだったからだ。


■仕事の質や成果よりも人からの評判重視

仕事においても”不安型”の人は愛着に関連した行動をとる。仕事上で大きな成果をあげたか、とか、貢献できたかという視点よりも、いかに周りから必要とされるか、あるいは拒否されるかといった対人関係上の問題に焦点があたりがちだ。

肝心な仕事自体がおろそかになることもある。


■人の感情に過敏な”不安型”愛着障害

愛着障害の”不安型”の人の関心は何においても、人間関係なのである。社会との関係が途切れてしまう死に対する恐れがおおきいし、相手の表情に対しても非常に敏感だ。

自分が愛されているか、嫌われていないかをしきりに気にしてしまうのだ。それだけに日常生活でエネルギーを必要とする。


■嫌われたくないから逆らわない

”不安型”の人の関心が人間関係なだけに、人に逆らえないということもよく起きる。八方美人がその典型だと思う。彼らは、ちゃんと空気を読み、決して場を濁すことは言わないし、怒ったり、逆らうこともない。だからこそうまく使われてしまう。だから、余計にストレスがたまってしまう。


■人に好かれたいから、人が嫌いというジレンマ

そんな”不安型”の愛着障害の驚くべき特性は、他者を求めている一方、不安をかきたてるもの、うっとおしいものとも思っていて、アンビバレントな心境と絶えず同居しなければならない。

人が大切だからこそ、それに囚われてしまっているのだ。結局心のモヤモヤはなくなることはない。

恋人と離れたくても離れられない人。

そういう人は、特に、人が好きでもあり、嫌いでもあるという両価的な葛藤・ジレンマに悩まされている。


■あなた自身があなたを認めてあげること

重要なのは、まずは自分で自分を認めてあげること。寝る前に、「今日も頑張ったね。お疲れさま。」と声をかけてあげること。自分をいたわること。



思想を体現する。

2015年2月18日水曜日

愛着からみる心理スタイル 〜安定型と不安定型〜

愛着障害を考える際の愛着スタイルには大きく3つのカテゴリーがある。

安定型、不安定型(不安型、回避型)の3つだ。




■安定型の対人関係

安定型の人は、対人関係や仕事において高い適応力を示す。人とうまくやることはもちろん、深い信頼関係を築き、維持していくことで人生は充実したものになる。

安定した愛着スタイルを持つ人は、相手を信頼しきっているので、すぐに助けや慰さめを求めることができる。それも、適度に。


■不安定型の対人関係

しかし、不安定な愛着スタイルを持つ人は、そんなことをしたら相手から嫌われるのではないか、あるいはバカにされるのではないかと恐れ、素直にそうすることができない。

不安定型(不安型や回避型)の愛着スタイルを生む要因の一つは、親から否定的な評価を受けて育つことである。むろん、そのように育った人は、自分自身に対する信頼感や有能感は低い。


■安定型の怒り

安定型の人が怒りをあらわす場合、しばしばそれは建設的な目的に向けられているケースが多い。相手を簡単い嫌いになったりせずに、関係がうまくいかなくなった理由そのものに怒りは向けられる。

こうして、さらに人間関係を強化したり維持したりしていく。


■不安定型の怒り

逆に、不安定型の人は相手そのものに敵意を向ける場合が多い。そのため、一度、敵意が表面化してしまったら、その修復は難しいことも多い。破壊的にしか働かない怒りを「非機能的怒り」と呼ぶのらしいだが、不安定型の人に多いという。

そうして、構築されかかった関係を壊してしまう。

「非機能的怒り」にみられやすい特徴は、傷つけられたことに長くとらわれてしまうこと。過剰に傷つけられたことに反応し、思い込みも激しいところがあったりする。

そのため、過去と同様に傷つけられたりした場合、その人を敵だとみなしたり、その逆は、理想の人だと思ったり白黒思考も強い。


■愛着スタイルによって変わる行動

このように愛着スタイルによって取る対人行動は変わります。安定型は生産的で、かつ深遠な人間関係をつくることができるいっぽう、不安定型は破壊的で、息苦しい人間関係を作ってしまうことになります。

「人の可能性を拡げる」ということにかかわる立場として向き合っていく課題だと感じています。




思想を体現する。

人生を決めているもの。住宅と街並みとぼくの視線から考える人生論。

  家づくりを検討しはじめて約2ヶ月。あれだけ回避していたローンのリスクを受け入れて、家を建てることに決めた。日本の一戸建ての寿命が30年のところ、90年もつ家を建てることを知ったのが大きなきっかけだった。90年もてば3歳の息子も死ぬまで住むことができるだろう。それならローンを組...