わたしはひとつの重要な愛を失ったからこそ、それまでも変わらずにあったたくさんの愛に気づくことができました。たくさんの愛に生かされていたことに気づけたからこそ、感謝をおもいだすことができたのです。
大切なのは、「最悪の事態」を直視することです。恥も外聞もなくなるまで悩みぬき、自分自身を見つめ、ほんものの自己を知るようになるのです。
病気とたたかっている人をみていると、自分とはなにかを知るためには、ほんものの自己ではないものをすべて脱ぎすてなければならないということがわかってくる。死にゆく人をみるとき、わたしたちがみているのは、もはやかれらの欠点でも、過ちでも、それまでは関心の的だった病状でもなくなっている。みているのは、ただその人だけだ。というのも、生の終局にあって、その人は以前よりもずっと純粋に、正直に……まるで赤ん坊のように……その人自身になっているからだ。(24頁)
最悪の状況に直面してはじめて、わたしたちはなにかできることがあったのではないかと、やっと反省しはじめます。こうしなければよかった、ああしておけばよかった、なぜあんなことをしたのか、こうした内省をすすめていくことでほんものの自己がみえてきいきます。
その人の真の姿をみることができるのは生のはじまりとおわりだけなのか?平凡な真実が姿をあらわすのは極限状況のときだけなのか?それ以外のときは、真の自己がみえないのか?おのれの真の自己を発見し、他者のなかにもその人の真正の自己をみること……それが人生の第一のレッスンである。(24頁)
わたしがこの4ヶ月に読んだ30冊もの心理学の書籍のなかにも、この「自分自身をつらぬく」ことの重要性が書かれていました。
「わたしたち」が「わたしたち」らしく生きるからこそ「わたしたち」が存在する。「誰か」の期待や求めに応じようとするから、「わたしたち」は他の「誰か」になりかわり、「わたしたち」の存在がみえにくくなるのです。「わたしたち」が他の「誰か」になりかわってしまったら、ぜったいに「ああ、わたしは生きた!」とは言えないのです。
すでにあなたのなかにいる偉大な人物も、姿をあらわす準備ができている。どんな人でも偉大さの萌芽をもっている。「偉大な」人物が、ほかの人たちのもっていないものをもっているというわけではない。「偉大な」人物はただ、最良の自己のまえにたちはだかる余分なものを脱ぎすてているだけなのだ。(25頁)
わたしたちのなかには必ず偉大な人物がいる、と著者はいいます。きっと、偉大な人物とは「ありのままのわたしたち」ということなのでしょう。では、「ありのままのわたしたち」を阻んでいる「余分なもの」とはなんなんでしょうか。次回は、その「余分なもの」をかんがえていきたいと思います。
『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜
絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)
わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)
「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)