2015年6月24日水曜日

「結婚したら、幸せになれるのに」のうそ。『ライフ・レッスン』人間関係のレッスン(2)

「もう結婚するのにも潮時かも…」、「はやく結婚したいのに、彼がプロポーズしてくれないの」、「もう落ち着こうかな〜」などなど、結婚にまつわるこうしたセリフはだれもが聞いたことがあるのではないでしょうか。

周囲からの目が気になって結婚したり、相手に救いをもとめて結婚したり、適齢期に近づいたから結婚したり、なぜだか、30歳前後になりだすとこの結婚にかんする話題を聞かないことはありません。

わたしたちはロマンチックな関係のなかに癒し、幸福、安全、友情、満足、こころの交流など、多くのものをもとめている。その関係が人生を「確固としたもの」にし、抑うつから解放し、無限のよろこびをもたらすことを望んでいる。ようするに、ロマンチックな関係があらゆる意味で幸福をもたらすことをもとめているのである。多くの人は、とくべつな人さえみつかれば人生のすべてがよくなるとさえ信じている。(88頁)

だれもが結婚することでいくばくか完全な自分に近づくとおもっているものです。ですが、同棲や結婚生活をはじめたとたん、相手は自分を幸せにしてくれないということがわかってきます。それでも、期待をすてることができずに、思いどおりにならない相手を責めてしまいます。そうして、幸せだったとおもっていた関係は徐々に活力を失っていきます。

ロマンチックな関係はある意味ですばらしいものであり、とてもむずかしいけれども魅力的な経験である。そんな関係がもてれば、自分をだめな人間だとおもうこともなく、この世にただひとりの人間としての誇りをもつことができる。ところが、まちがってその関係が自分を「確固としたもの」にしてくれると信じたときに、問題が生じる。人間関係は人を確固とした存在にしたりするものではない。それはおとぎ話の思考だ。(89頁) 

人はひとりでは生きれません。ですが、だれかがあなたを救ってくれることもない。そう痛感しました。冷徹に聞こえるかもしれませんが、わたしたちが幸せになれるかはわたしたち自身にかかっています。そして、わたしたちがわたしたちを幸せにしてあげてはじめて、だれかを幸せにする力が生みだされるのではないか、と思うのです。

独身で不幸な人は結婚しても不幸なのだ。専門職につけない人は、とくべつな人をみつけても、パートナーのいる専門職につけない人にしかなれない。親としての能力が欠けた人は、結婚しても親としての能力が欠けたままだ。そして、だれかとくべつな人がいなければ自分は無価値な存在だと感じている人は、その人との関係のなかでも、いずれは無価値性が外にあらわれる。あなたが求めている全体性や完全性はあなたの内部にあって、発見されるのは待っているのだ。(93頁)

 だれがみても、自分で自分を不幸にしているようにみえる人がいます。幸せになってはならないと暗示をかけられているかのように、みずから幸せを遠ざけている人もいます。

あなたを幸せにする人はわたしではない。あなたを幸せにする人は彼でも彼女でもない。あなたを幸せにするのはあなたでしかないのです。

ですから、わたしたちのなかにある全体性や完全性に、わたしたち自身が気づき、わたしたちを幸せにしてあげなければならないのです。

真の答えは、他にもとめることをやめて自己を完成させることのなかにある。だれか愛する人をみつけようとするのではなく、自分自身を愛されるに値する人間につくりあげていこう。もっと自分を愛するようにと相手にしむける努力を、愛される価値のある自己をつくることにしむけよう。相手からあたえてほしいと望んでいるだけの愛を自分が相手にあたえているかどうか、じゅうぶんは愛をあたえていないのに相手からの愛だけを期待していないかどうか、自分自身に問いかけてみよう。ころわざにもあるように、あなたの船が堅牢でなければ、あなたといっしょに大洋を渡ろうとする人はだれもいないだろう。 (94頁)

逃げずに自分と向き合うことで、自分を見いだし、そのなかに自信を見つけること。それは、むずかしいことですが、不可能なことではありません。僕のまわりでも、そうした奇跡はこの目のまえに起こっているのですから。

実際に、人は変わっていけるということを、まざまざと見せつけてくれた彼らに感謝をして終わりたいと思います。


過去記事はこちら↓

『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

あなたはあなた。わたしはわたし。「ほんものの自己」のレッスン(4)

人間関係の悩みはうとましい、の嘘。『ライフ・レッスン』人間関係のレッスン(1)

2015年6月22日月曜日

人間関係の悩みはうとましい、の嘘。『ライフ・レッスン』人間関係のレッスン(1)

わたしたちの悩みのほとんどは、人間関係によるものかもしれません。

家族、パートナー、恋人、上司同僚、友人など、選べる関係もあれば選べない関係もあります。そのなかで、愛や友情をはぐくむというすばらしい経験もあれば、嘘や裏切りなどやりきれない経験もあるでしょう。

いづれにしても、人間関係をぬきに人生を進んでいくことはできません。


人間関係は人生のレッスンを学ぶ最高の機会をあたえてくれるものである。自分はほんとうはどんな人間なのか、なにを恐れているのか、自分の力はどこから生まれるのか、真の愛とはなんなのか、人間関係はそれを発見するための場でもある。人間関係が最高の学びの場であるなどというと、抵抗をおぼえる人もいるかもしれない。なぜなら、人間関係は多くのばあい、なかなかおもうようにならない、ときにはひどくつらい経験だからだ。しかし、だからこそ、学び、成長し、愛し、愛されるための最高の場ともすることができるのである。(85頁)

これまで築いていきた人間関係のあっけない破綻から、それこそ、自分がどんな人間か、なにを恐れ、なにを守るために今の自分がいるのかを考えるチャンスをもらいました。

わたしは、人間関係からどれくらいのものが失われる可能性があり、同時にどれくらいのものを見つけることができるのか、すでにどれほどのめぐまれた人間関係にかこまれていたか、すばらしい人間関係が所与のものであると勘違いしてしまう人のおごりさえ学びました。

もっとも親密な関係からもっとも疎遠な関係まで、それぞれの人間関係に共通する分母があなたという存在である。ひとつの人間関係にたいするあなたの態度……否定的か肯定的か、好意か憎悪かを問わず……、すべての人間関係に反映している。それぞれの関係にじゅうぶんな愛を注ぐか、それとも少ししか注がないか、それを選択するのはあなたなのだ。(85-86頁)

どんな人間関係を築くかは、わたしたちの態度次第です。

わたしたちが今築いている人間関係を所与のものとみなして、「もっと、もっと」と心のなかでさけんでいれば、きっと幸せな人間関係は築けないでしょう。

逆にわたしたちは「もっと、もっと」というゲームをはなれ、日々生かされているのだという意識をもとに、今関係のある人に心を、目をみひらけば、そこに恵みがあるということに気づくことができるのです。

無意味な人間関係、偶然の人間関係などというものはない。配偶者から顔も知らない電話交換手まで、どんな出あい、どんな交際でも、幸福な関係でも不幸な関係でも、幸福でも不幸でもない関係でも、つきあう時間の長短や親密さの度合いのいかんを問わず、そこには意味がある。ものごとを大きな目でみれば、あらゆる人間関係には重要な意味がひめられている。ただすれちがっただけという些細な関係でさえ、そこから真の自己にかんする大きなものを学ぶことができる。出あうすべての人が、わたしたちに幸福や争いや不幸をもたらす可能性をもっている。どんな相手でも、予想もしなかったほどすばらしい愛をもたらす可能性をもっているのである。(88頁)

いじめ、裏切り、浮気や不倫といった最悪の人間関係においてさえも、そこに意味があるということをわたしは学びました。

わたしたちの傲慢さや行きすぎた自己本位性、感受性のなさといった否定的で、ネガティブな気づきもあれば、わたしたちを取り巻く人間関係のなかにはおおくの優しさや配慮、支援をうけていたことへの感謝の気持ちに気づことができるのです。

人間関係は、ときに疎ましいものでもあります。

それでも、わたしたちが構成している人間関係のなかに、ほんものの自己を見つけるヒントが隠されており、自身の否定性を認めることで、よりよい人間に成長していくためのレッスンを学ぶチャンスがあるのです。


過去記事はこちら↓

『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

あなたはあなた。わたしはわたし。「ほんものの自己」のレッスン(4)

2015年6月2日火曜日

あなたはあなた。わたしはわたし。「ほんものの自己」のレッスン(4)

前回は、いかにして「役割」が「ほんもののわたし」を隠しているか、そして、「ありのままのわたし」に価値があるということについて書きました。

今回は、まず、実際に「ほんもののわたしたち」を隠している「役割」をとりさっていくためのヒントから紹介していきたいとおもいます。

・その役割は退屈な仕事だったと気づく。「みんなの幸福の責任を感じなくてもいいんだから、いまはとても気が楽だ」
・自分は人をあざむいていたと気づく。「いい人を演じて、好感をもたせるために、みんなをあやつっていた」
・ありのままでいても、人に好かれる自分であることに気づく。
・自分の行動が恐れから生じていたことに気づく。(善人ではないという恐れ、天国には行けないという恐れ、人に好かれないという恐れ)
・報酬を得るために役割を利用していたと気づく。「だれからも愛され、尊敬される人になろうとしていたが、自分はみんなとおなじ、ただの人間だ」
・他人は大いに悩むがいい、それが自己発見への道だ、そうおもっていたと気づく。
・自分の優位性を感じたいために他人の弱点を強調していたことに気づく。
・他人の「破綻」を強調することによって自分の問題を回避していたことに気づく。(33-34頁)

なにか気づくことはありましたか?

個人的には、うえから3つはけっこうおおくの人に何がしかの気づきがあるのではないかとおもいます。それだけに、わたしたちは自分を裏切っているということなのです。すくなくとも、わたしたちだけは「ありのままのわたしたち」を愛してあげたいものです。

もしだれもみていなかったら、自分はなにをするだろうかと自問してもいい。結果をかんがえずに、したいことがなんでもできるとしたらどうだろう?その問いにたいする答えのなかに、真の自己にかんする多くのものがふくまれている。(39頁)

わたしは上記の質問をしてみたときに、さまざまな隠された自己が見えてきました。思った以上に、わたしは怠惰な人間であること。仕事上で、もっとやりたいことがあること。愛する人の近くにもっといたいとおもっていること。などなど。

いづれにしても、わたしたちは自分を偽って生きているのです。


真の自己を発見し、真の自己でありつづけること。ほんとうはなにがしたいのか、なにがしたくないのかをみわけること。その作業は自分自身の経験にゆだねることによっておこなわれる。そのためには、あらゆることはしなければならない。職業の種類から身につける服装まで、よろこびややすらぎが得られるかどうかは、その判断にかかっているからだ。他人の目を意識してなにか価値ある行為をしても、それは自分にとっての価値ある行為にはならない。にもかかわらず、わたしたちの多くはしたいことをするよりもするべきことをしながら生きている。(38-39頁)
真の自己をみつけようとする人のまえにあらわれるのは、そのために必要な作業、つまり、学ぶべきレッスンだ。内部の存在と外部の存在がひとつになったとき、人はもはや自己を隠すことも、恐れることも、守ることもなくなる。周囲の状況を超越したなにものかとして、自己をみるようになる。(42頁)
あなたの本質はもっとも純粋な愛であり、壮大ともいえる完全性である。あなたは自己を癒し、自己がだれであったのかをおもいだすために、地上に生まれてきた。おもいだすべきあなたの本質こそが、闇夜を行くときのみちびきの光である。 (42頁)

 今回で、「ほんものの自己のレッスン」は終わりです。次回からは「愛のレッスン」にはいっていきます。

そして、この「ほんものの自己のレッスン」を学ばなければ、わたしたちは「愛のレッスン」に移行することはできません。

なぜなら、わたしがわたしを偽っているのに、だれかを愛することができるでしょうか。わたしたちがわたしたちらしく毎日を生きることが、結果、充実した人生をおくることができるのです。それは、愛でも、仕事でも、家族でも、すべて共通であるとおもいます。

最後に、わたしが最近もっとも共感している「ゲシュタルトの祈り」を紹介して締めくくりたいとおもいます。



わたしはわたしのことをして、あなたはあなたのことをする。  

わたしは、あなたの期待に応えるために、この世にいるのでは、ない。

 
あなたも、わたしの期待に応えるために、この世にいるのでは、ない。  

あなたはあなた、わたしはわたし。  

もし偶然にお互いが出会うことがあれば、それは素晴らしいこと。  

けれどもし出会うことがなければ、それはそれで、いたしかたがないこと。

─────フレデリック・パールズ



『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしたちは、日々、人生のレッスンを見過ごして生きています。時間にゆとりがある人は、「退屈だ、なにかおもしろいことないかな?」とぼやき、時間に追われている人は、立ちどまって考えることすらできていません。

人生には、まなぶべきレッスンがあります。そう言うわたしも、今こうした苦境に身をおくことがなければ、気づくことはできなかったでしょう。忙しさにかまけて、人生のレッスンを見過ごしてきた。今はそう思うことができます。

レッスンを学ぶことは成熟していくことにやや似ている。とつぜん幸福になったり、力がついたり、裕福になったりすることはないが、周囲の世界にたいする理解が深まり、自分自身とのおりあいがつけやすくなる。人生のレッスンを学んだからといって人生が完全なものになるわけではないが、そうなるはずだったような人生をみることには確実につながる。(19-20頁)

生きていてなにかむなしさを感じる。パートナーとの関係がマンネリしてきた。仕事にやりがいを感じることがすくない。子育てにつかれてしまった。わたしたちは、人生における停滞を感じたとき、そこには人生のレッスンがかくれています。そして、人生のレッスンを学んでいくことこそが、人生の充実につながるのではないか、そんな想いをつよくしています。

わたしたちは自分についてあたえられたレッスンを学ぶために地上に生まれてきた。しかし、「あなたのレッスンはこれだ」と教えることのできる人はだれもいない。それをみつけることが、人生という個人的な旅の一部なのだ。その旅の途上で、獲得すべき多くのものがあたえられることもあれば、ほんのすこししかあたえられないこともあるだろうが、その人の手にあまるほどのものがあたえられることはけっしてない。(20頁)

「ライフ・レッスン」をみいだすには、わたしたちのこころが世界にひらかれていなければなりません。意識的にみつけようとしていなければ、「ライフ・レッスン」は人生の終末にしかおとずれることはないのかもしれません。

喪失に直面したとき、われわれのクライアントたちは、重要なのは愛だけだったということに気づいた。じつは愛こそは、われわれが自由に御し、身につけ、もち歩くことができる唯一のものである。クライアントたちは「彼方」に幸福をもとめることを断念した。そのかわり、かれらは自分がすでにもっていたもののなかに、自分自身であることのなかに豊穣と意味をみいだす方法を学び、すでにある可能性を深く掘りさげる方法を身につけた。(21頁)

なにか大事がおきなければ、わたしたちは人生からのメッセージに気づくことができません。わたしたちは無意識にそうしたおとし穴にはまりつづける生き物なのかもしれません。わたしはひとつの愛を喪失しましたが、そうした大事がおこって、ようやく、人生からのメッセージに、あるいは、ほんとうの愛とは何かということに想いをめぐらすようになったのです。


どんな状況であれ、最悪の事態に直面したときに、人間は成長する。状況が最悪になったときにこそ、最良のものをみいだすことができる。そのレッスンのほんとうの意味がわかったとき、幸福で意味のある人生もみいだすことができるようになる。完璧ではないが真正の人生がみつかり、十全な生をまっとうすることができる。(22頁)

わたしとおなじように、もしあなたが人生の落ち目にあり、苦悩にさいなまれているなら、ぜひ、人生からのメッセージに心を澄ましてほしいと思います。厳しい苦難だからこそ、そこには強いメッセージがあるはずです。

悪いときはとことん悪い。もしかしたら、そうかもしれません。毎日毎日胸が締めつけられるような想いは誰もが経験したくないものです。

それでも、最悪がなければ最良も見いだせないということを心にとどめておきたいものです。白と黒ではわりきれない。それが、人生なのかもしれません。そして、わたしたちがまなぶべきレッスンにどのような態度をとるかによって、人生の意味はかわってくるのだ、と心にきざみたいと思うのです。


『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)


人生を決めているもの。住宅と街並みとぼくの視線から考える人生論。

  家づくりを検討しはじめて約2ヶ月。あれだけ回避していたローンのリスクを受け入れて、家を建てることに決めた。日本の一戸建ての寿命が30年のところ、90年もつ家を建てることを知ったのが大きなきっかけだった。90年もてば3歳の息子も死ぬまで住むことができるだろう。それならローンを組...