2015年5月27日水曜日

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

「あなたは何者ですか?」と聞かれたら、あなたはなんと答えるだろうか?

どこそこに勤めている …というものです。どこそこ出身の…というものです。一児の母をしています…というものです。きっと、いろいろな答えがかえってくるだろうと思います。

この答えは「ほんもののあなた」でしょうか。


たいがいの人は人生のさまざまな場面で多くの役割を演じている。わたしたちはその場におうじて役割を変える方法を身につけているが、役割という殻の内側、つまり真の自己でありつづける方法を知っている人は少ない。…問題はその役割が真の自己にとってどう役立ち、どんな矛盾をもたらすかに気づいているかいないかにあるのだ。(30頁)

 わたしたちがあらためて意識しておきたいのは、その役割が「ほんもののあなた」にどのような影響をあたえているか、ということです。わたしがしるかぎり、あまりのおおくの人たちが、「役割」に「ほんものの自己」が押しつぶされています。

2年前、わたし自身、仕事でおおきなスランプに陥ったことがありますが、今思いかえすと「役割」の影で「ほんもののわたし」が呼吸困難におちいっていたとおもいます。結局は、ありのままのわたしでいることがもっとも効果的に生きれる秘訣なのかもしれません。

さまざまな役割をたまねぎの皮のようなもので、皮をむいていると多少の涙がでるように、役割の内側にある真の自己を発見するには、多少の苦痛がともなうこともある。(30頁)

とはいえ、「ほんもののわたし」を発見するということは、わたしたちの短所や欠点をみつめるということも含まれているわけですから、多少の苦痛がともなうこともあるのです。

内なる否定性の存在をみとめることは人間に必須の条件である。その存在をみとめさえすれば、そこにはたらきかけ、それを手放すことも可能になる。人生のレッスンを学んでいくにつれて、さまざまな役割の層がひとつずつはがれていき、うち奥にひそむ、自分にとって好ましくないものがみえてくる。みえてきたものが自己の本質、自分の正体であり、それが悪であるというわけではない。ただ、自分では気づかなかった一面があったというだけのことだ。(30-31頁)

わたし自身、この4ヶ月で起こった悲劇のなかで、あらためて自己をみつめかえしましたが、やはり、短所や欠点はみえてくるものです。そして、それらを直視すること。反省から学びに昇華させ、短所や欠点をもったわたしそのものを認めてあげること。「ありのままのわたしたち」を素直に認めてあげることがわたしたちが生きるうえで重要ではないかと思うのです。

人生のいかなる局面においてもつねに並はずれていい人であるとしたら、それはまやかしであり、にせものである。人生の振り子が中心点にもどるには、軌道の一方の端と他方の端のあいだを何度も往復しなければならない。そして、振り子がゆれるたびに、人は不機嫌になる。真の自己がみいだせるのは振り子が中心点にあるときだけであり、そのときの自分はなにかを得るためにあたえるような人ではなく、慈悲心から生まれた、ほんものの「いい人」になっている。(31頁)
ほんものの自己に立ちかえることは、人間の自己というものの完全性をひきうけることである。そこには、わたしたちが隠したがる暗い側面もふくまれているかもしれない。人間は善なるものに惹かれる存在だとおもわれがちだが、じっさいに惹かれているのは善でも悪でもなく真正なもの、ほんものなのだ。その証拠として、わたしたちは余分な飾りをつけて真の自己を隠している人よりも、偽りのない人に好感をいだく。(44頁)

誰にたいしても支援的で、笑顔をふるまい、ぜったいに「NO!」といわない、いわゆる「いい人」がいます。著者は、それは「まやかしであり、にせものである」といっています。

わたしは、「人生、逆こそ真なり」と考えるようになりました。

「いい顔」するから、ほんとうの友情や愛情にめぐまれない。「いい顔」するから、誰かに嫌われる。「いい顔」するから、信頼されない。これが、「人生のパラドックス」という真実。

何かをほしがらなくてもいいのです。そのままのわたしたちが、完全性であり、全体性であり、唯一無二の価値ある人間なのですから。


『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

2015年5月19日火曜日

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

前回は、人生からのメッセージに心を澄ませること、最悪のなかに最良をみいだすことができることを学びました。

わたしはひとつの重要な愛を失ったからこそ、それまでも変わらずにあったたくさんの愛に気づくことができました。たくさんの愛に生かされていたことに気づけたからこそ、感謝をおもいだすことができたのです。

大切なのは、「最悪の事態」を直視することです。恥も外聞もなくなるまで悩みぬき、自分自身を見つめ、ほんものの自己を知るようになるのです。

病気とたたかっている人をみていると、自分とはなにかを知るためには、ほんものの自己ではないものをすべて脱ぎすてなければならないということがわかってくる。死にゆく人をみるとき、わたしたちがみているのは、もはやかれらの欠点でも、過ちでも、それまでは関心の的だった病状でもなくなっている。みているのは、ただその人だけだ。というのも、生の終局にあって、その人は以前よりもずっと純粋に、正直に……まるで赤ん坊のように……その人自身になっているからだ。(24頁)

最悪の状況に直面してはじめて、わたしたちはなにかできることがあったのではないかと、やっと反省しはじめます。こうしなければよかった、ああしておけばよかった、なぜあんなことをしたのか、こうした内省をすすめていくことでほんものの自己がみえてきいきます。

その人の真の姿をみることができるのは生のはじまりとおわりだけなのか?平凡な真実が姿をあらわすのは極限状況のときだけなのか?それ以外のときは、真の自己がみえないのか?おのれの真の自己を発見し、他者のなかにもその人の真正の自己をみること……それが人生の第一のレッスンである。(24頁)

わたしがこの4ヶ月に読んだ30冊もの心理学の書籍のなかにも、この「自分自身をつらぬく」ことの重要性が書かれていました。

「わたしたち」が「わたしたち」らしく生きるからこそ「わたしたち」が存在する。「誰か」の期待や求めに応じようとするから、「わたしたち」は他の「誰か」になりかわり、「わたしたち」の存在がみえにくくなるのです。「わたしたち」が他の「誰か」になりかわってしまったら、ぜったいに「ああ、わたしは生きた!」とは言えないのです。

すでにあなたのなかにいる偉大な人物も、姿をあらわす準備ができている。どんな人でも偉大さの萌芽をもっている。「偉大な」人物が、ほかの人たちのもっていないものをもっているというわけではない。「偉大な」人物はただ、最良の自己のまえにたちはだかる余分なものを脱ぎすてているだけなのだ。(25頁)

わたしたちのなかには必ず偉大な人物がいる、と著者はいいます。きっと、偉大な人物とは「ありのままのわたしたち」ということなのでしょう。では、「ありのままのわたしたち」を阻んでいる「余分なもの」とはなんなんでしょうか。次回は、その「余分なもの」をかんがえていきたいと思います。




『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

2015年5月7日木曜日

『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

2015年はじまって4ヶ月あまり。

苦悩に満ちた時間に今ひとつの答えを出そうとしています。

人生はあまりにも気まぐれなものです。嫌がらせとしか思えない試練がどこからともなく突然音もたてずにやってきます。心はむしばまれ、身体はやせ細り、根性だけではもう立つことさえもままならない、そうした経験が誰にでもいちどはあるはずです。

苦悩や恐れからわたしたちは逃れることはできません。

けれども「もうこれ以上はムリ。」、「もうどうにでもなれ。」、限界のギリギリまで悩み、そこに意味をみいだすことができたなら、これまで見えていなかったこと、つまり、愛、人間関係、本当の自分、怒り、生きる意味が見えてきます。

人生はわたしたちのとる態度にかかっています。苦悩さえもそこに意味をみいだすことができるなら、わたしたちはそこから学ぶことができ、人生を豊かにすることができます。

こうしたことをおこなっていくことは、本当にむずかしいことです。たとえ、心のなかでそう思っていたとしても、何かがわたしたちの邪魔をします。

それでも、わたしたちはチャレンジしていくかどうかを選ぶことができます。どう生きていくのか、それはわたしたちの選択にかかっているのです。

わたしは、2015年おおきな喪失を経験しました。この4ヶ月苦悩に満ち、精神安定もままならず、日々を耐えしのんできました。そのなかで読んできた30冊にものぼる心理学の書籍は、それでも、わたしたちは、自分次第で幸福を選びとることができることを教えてくれます。

今日から書いていくBlogは、エリザベス・キューブラー・ロス著の『ライフ・レッスン』をなぞりながら書いていきます。エリザベス・キューブラー・ロス氏はスイス・チューリッヒ出身の精神科医で、死にゆく人の心のプロセス(経過)を説いた名著『死ぬ瞬間』の著者として知られる人物です。死にゆく人が人生の終末に見いだしたもの、それを今を生きている人への教訓として書かれたのが『ライフ・レッスン』です。


この4ヶ月にわたるわたし自身の人生のレッスンを「ラスト・レッスン」として書いていくつもりです。わたしがこの4ヶ月あまりで体験したこと、学んだことの集大成であり、わたし自身のこれからの肥やしにすることが目的です。

願わくば、わたしの苦悩や学びが、誰かの生きる勇気となり、励ましとなり、あかるい未来を切り拓いていくためのひとつのともしびになることができれば嬉しいです。

人生のレッスンとは、みずからの卑小性にはたらきかけ、否定性をとりのぞいて、自己のなかにも他者のなかにもある最良のものをみいだす作業にかかわるものだ。人生の暴風にも似たそのレッスンは、わたしたちを本来のわたしたちに立ちかえらせてくれる。わたしたちはたがいに癒しあい、また自己を癒すために地上に生まれてきた。それは身体症状の回復という意味での癒しではなく、はるかに深いレベルでの癒し、精神の、そしてたましいの癒しである。(8頁)

 人生の終末に「ああ、わたしは生きた!」というために、わたしたちが今できることをこれから考えていきたいと思います。


絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)



人生を決めているもの。住宅と街並みとぼくの視線から考える人生論。

  家づくりを検討しはじめて約2ヶ月。あれだけ回避していたローンのリスクを受け入れて、家を建てることに決めた。日本の一戸建ての寿命が30年のところ、90年もつ家を建てることを知ったのが大きなきっかけだった。90年もてば3歳の息子も死ぬまで住むことができるだろう。それならローンを組...