家族、パートナー、恋人、上司同僚、友人など、選べる関係もあれば選べない関係もあります。そのなかで、愛や友情をはぐくむというすばらしい経験もあれば、嘘や裏切りなどやりきれない経験もあるでしょう。
いづれにしても、人間関係をぬきに人生を進んでいくことはできません。
人間関係は人生のレッスンを学ぶ最高の機会をあたえてくれるものである。自分はほんとうはどんな人間なのか、なにを恐れているのか、自分の力はどこから生まれるのか、真の愛とはなんなのか、人間関係はそれを発見するための場でもある。人間関係が最高の学びの場であるなどというと、抵抗をおぼえる人もいるかもしれない。なぜなら、人間関係は多くのばあい、なかなかおもうようにならない、ときにはひどくつらい経験だからだ。しかし、だからこそ、学び、成長し、愛し、愛されるための最高の場ともすることができるのである。(85頁)
これまで築いていきた人間関係のあっけない破綻から、それこそ、自分がどんな人間か、なにを恐れ、なにを守るために今の自分がいるのかを考えるチャンスをもらいました。
わたしは、人間関係からどれくらいのものが失われる可能性があり、同時にどれくらいのものを見つけることができるのか、すでにどれほどのめぐまれた人間関係にかこまれていたか、すばらしい人間関係が所与のものであると勘違いしてしまう人のおごりさえ学びました。
もっとも親密な関係からもっとも疎遠な関係まで、それぞれの人間関係に共通する分母があなたという存在である。ひとつの人間関係にたいするあなたの態度……否定的か肯定的か、好意か憎悪かを問わず……、すべての人間関係に反映している。それぞれの関係にじゅうぶんな愛を注ぐか、それとも少ししか注がないか、それを選択するのはあなたなのだ。(85-86頁)
どんな人間関係を築くかは、わたしたちの態度次第です。
わたしたちが今築いている人間関係を所与のものとみなして、「もっと、もっと」と心のなかでさけんでいれば、きっと幸せな人間関係は築けないでしょう。
逆にわたしたちは「もっと、もっと」というゲームをはなれ、日々生かされているのだという意識をもとに、今関係のある人に心を、目をみひらけば、そこに恵みがあるということに気づくことができるのです。
無意味な人間関係、偶然の人間関係などというものはない。配偶者から顔も知らない電話交換手まで、どんな出あい、どんな交際でも、幸福な関係でも不幸な関係でも、幸福でも不幸でもない関係でも、つきあう時間の長短や親密さの度合いのいかんを問わず、そこには意味がある。ものごとを大きな目でみれば、あらゆる人間関係には重要な意味がひめられている。ただすれちがっただけという些細な関係でさえ、そこから真の自己にかんする大きなものを学ぶことができる。出あうすべての人が、わたしたちに幸福や争いや不幸をもたらす可能性をもっている。どんな相手でも、予想もしなかったほどすばらしい愛をもたらす可能性をもっているのである。(88頁)
いじめ、裏切り、浮気や不倫といった最悪の人間関係においてさえも、そこに意味があるということをわたしは学びました。
わたしたちの傲慢さや行きすぎた自己本位性、感受性のなさといった否定的で、ネガティブな気づきもあれば、わたしたちを取り巻く人間関係のなかにはおおくの優しさや配慮、支援をうけていたことへの感謝の気持ちに気づことができるのです。
人間関係は、ときに疎ましいものでもあります。
それでも、わたしたちが構成している人間関係のなかに、ほんものの自己を見つけるヒントが隠されており、自身の否定性を認めることで、よりよい人間に成長していくためのレッスンを学ぶチャンスがあるのです。
過去記事はこちら↓
『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜
絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)
わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)
「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)
あなたはあなた。わたしはわたし。「ほんものの自己」のレッスン(4)