2015年6月22日月曜日

人間関係の悩みはうとましい、の嘘。『ライフ・レッスン』人間関係のレッスン(1)

わたしたちの悩みのほとんどは、人間関係によるものかもしれません。

家族、パートナー、恋人、上司同僚、友人など、選べる関係もあれば選べない関係もあります。そのなかで、愛や友情をはぐくむというすばらしい経験もあれば、嘘や裏切りなどやりきれない経験もあるでしょう。

いづれにしても、人間関係をぬきに人生を進んでいくことはできません。


人間関係は人生のレッスンを学ぶ最高の機会をあたえてくれるものである。自分はほんとうはどんな人間なのか、なにを恐れているのか、自分の力はどこから生まれるのか、真の愛とはなんなのか、人間関係はそれを発見するための場でもある。人間関係が最高の学びの場であるなどというと、抵抗をおぼえる人もいるかもしれない。なぜなら、人間関係は多くのばあい、なかなかおもうようにならない、ときにはひどくつらい経験だからだ。しかし、だからこそ、学び、成長し、愛し、愛されるための最高の場ともすることができるのである。(85頁)

これまで築いていきた人間関係のあっけない破綻から、それこそ、自分がどんな人間か、なにを恐れ、なにを守るために今の自分がいるのかを考えるチャンスをもらいました。

わたしは、人間関係からどれくらいのものが失われる可能性があり、同時にどれくらいのものを見つけることができるのか、すでにどれほどのめぐまれた人間関係にかこまれていたか、すばらしい人間関係が所与のものであると勘違いしてしまう人のおごりさえ学びました。

もっとも親密な関係からもっとも疎遠な関係まで、それぞれの人間関係に共通する分母があなたという存在である。ひとつの人間関係にたいするあなたの態度……否定的か肯定的か、好意か憎悪かを問わず……、すべての人間関係に反映している。それぞれの関係にじゅうぶんな愛を注ぐか、それとも少ししか注がないか、それを選択するのはあなたなのだ。(85-86頁)

どんな人間関係を築くかは、わたしたちの態度次第です。

わたしたちが今築いている人間関係を所与のものとみなして、「もっと、もっと」と心のなかでさけんでいれば、きっと幸せな人間関係は築けないでしょう。

逆にわたしたちは「もっと、もっと」というゲームをはなれ、日々生かされているのだという意識をもとに、今関係のある人に心を、目をみひらけば、そこに恵みがあるということに気づくことができるのです。

無意味な人間関係、偶然の人間関係などというものはない。配偶者から顔も知らない電話交換手まで、どんな出あい、どんな交際でも、幸福な関係でも不幸な関係でも、幸福でも不幸でもない関係でも、つきあう時間の長短や親密さの度合いのいかんを問わず、そこには意味がある。ものごとを大きな目でみれば、あらゆる人間関係には重要な意味がひめられている。ただすれちがっただけという些細な関係でさえ、そこから真の自己にかんする大きなものを学ぶことができる。出あうすべての人が、わたしたちに幸福や争いや不幸をもたらす可能性をもっている。どんな相手でも、予想もしなかったほどすばらしい愛をもたらす可能性をもっているのである。(88頁)

いじめ、裏切り、浮気や不倫といった最悪の人間関係においてさえも、そこに意味があるということをわたしは学びました。

わたしたちの傲慢さや行きすぎた自己本位性、感受性のなさといった否定的で、ネガティブな気づきもあれば、わたしたちを取り巻く人間関係のなかにはおおくの優しさや配慮、支援をうけていたことへの感謝の気持ちに気づことができるのです。

人間関係は、ときに疎ましいものでもあります。

それでも、わたしたちが構成している人間関係のなかに、ほんものの自己を見つけるヒントが隠されており、自身の否定性を認めることで、よりよい人間に成長していくためのレッスンを学ぶチャンスがあるのです。


過去記事はこちら↓

『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

あなたはあなた。わたしはわたし。「ほんものの自己」のレッスン(4)

2015年6月2日火曜日

あなたはあなた。わたしはわたし。「ほんものの自己」のレッスン(4)

前回は、いかにして「役割」が「ほんもののわたし」を隠しているか、そして、「ありのままのわたし」に価値があるということについて書きました。

今回は、まず、実際に「ほんもののわたしたち」を隠している「役割」をとりさっていくためのヒントから紹介していきたいとおもいます。

・その役割は退屈な仕事だったと気づく。「みんなの幸福の責任を感じなくてもいいんだから、いまはとても気が楽だ」
・自分は人をあざむいていたと気づく。「いい人を演じて、好感をもたせるために、みんなをあやつっていた」
・ありのままでいても、人に好かれる自分であることに気づく。
・自分の行動が恐れから生じていたことに気づく。(善人ではないという恐れ、天国には行けないという恐れ、人に好かれないという恐れ)
・報酬を得るために役割を利用していたと気づく。「だれからも愛され、尊敬される人になろうとしていたが、自分はみんなとおなじ、ただの人間だ」
・他人は大いに悩むがいい、それが自己発見への道だ、そうおもっていたと気づく。
・自分の優位性を感じたいために他人の弱点を強調していたことに気づく。
・他人の「破綻」を強調することによって自分の問題を回避していたことに気づく。(33-34頁)

なにか気づくことはありましたか?

個人的には、うえから3つはけっこうおおくの人に何がしかの気づきがあるのではないかとおもいます。それだけに、わたしたちは自分を裏切っているということなのです。すくなくとも、わたしたちだけは「ありのままのわたしたち」を愛してあげたいものです。

もしだれもみていなかったら、自分はなにをするだろうかと自問してもいい。結果をかんがえずに、したいことがなんでもできるとしたらどうだろう?その問いにたいする答えのなかに、真の自己にかんする多くのものがふくまれている。(39頁)

わたしは上記の質問をしてみたときに、さまざまな隠された自己が見えてきました。思った以上に、わたしは怠惰な人間であること。仕事上で、もっとやりたいことがあること。愛する人の近くにもっといたいとおもっていること。などなど。

いづれにしても、わたしたちは自分を偽って生きているのです。


真の自己を発見し、真の自己でありつづけること。ほんとうはなにがしたいのか、なにがしたくないのかをみわけること。その作業は自分自身の経験にゆだねることによっておこなわれる。そのためには、あらゆることはしなければならない。職業の種類から身につける服装まで、よろこびややすらぎが得られるかどうかは、その判断にかかっているからだ。他人の目を意識してなにか価値ある行為をしても、それは自分にとっての価値ある行為にはならない。にもかかわらず、わたしたちの多くはしたいことをするよりもするべきことをしながら生きている。(38-39頁)
真の自己をみつけようとする人のまえにあらわれるのは、そのために必要な作業、つまり、学ぶべきレッスンだ。内部の存在と外部の存在がひとつになったとき、人はもはや自己を隠すことも、恐れることも、守ることもなくなる。周囲の状況を超越したなにものかとして、自己をみるようになる。(42頁)
あなたの本質はもっとも純粋な愛であり、壮大ともいえる完全性である。あなたは自己を癒し、自己がだれであったのかをおもいだすために、地上に生まれてきた。おもいだすべきあなたの本質こそが、闇夜を行くときのみちびきの光である。 (42頁)

 今回で、「ほんものの自己のレッスン」は終わりです。次回からは「愛のレッスン」にはいっていきます。

そして、この「ほんものの自己のレッスン」を学ばなければ、わたしたちは「愛のレッスン」に移行することはできません。

なぜなら、わたしがわたしを偽っているのに、だれかを愛することができるでしょうか。わたしたちがわたしたちらしく毎日を生きることが、結果、充実した人生をおくることができるのです。それは、愛でも、仕事でも、家族でも、すべて共通であるとおもいます。

最後に、わたしが最近もっとも共感している「ゲシュタルトの祈り」を紹介して締めくくりたいとおもいます。



わたしはわたしのことをして、あなたはあなたのことをする。  

わたしは、あなたの期待に応えるために、この世にいるのでは、ない。

 
あなたも、わたしの期待に応えるために、この世にいるのでは、ない。  

あなたはあなた、わたしはわたし。  

もし偶然にお互いが出会うことがあれば、それは素晴らしいこと。  

けれどもし出会うことがなければ、それはそれで、いたしかたがないこと。

─────フレデリック・パールズ



『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしたちは、日々、人生のレッスンを見過ごして生きています。時間にゆとりがある人は、「退屈だ、なにかおもしろいことないかな?」とぼやき、時間に追われている人は、立ちどまって考えることすらできていません。

人生には、まなぶべきレッスンがあります。そう言うわたしも、今こうした苦境に身をおくことがなければ、気づくことはできなかったでしょう。忙しさにかまけて、人生のレッスンを見過ごしてきた。今はそう思うことができます。

レッスンを学ぶことは成熟していくことにやや似ている。とつぜん幸福になったり、力がついたり、裕福になったりすることはないが、周囲の世界にたいする理解が深まり、自分自身とのおりあいがつけやすくなる。人生のレッスンを学んだからといって人生が完全なものになるわけではないが、そうなるはずだったような人生をみることには確実につながる。(19-20頁)

生きていてなにかむなしさを感じる。パートナーとの関係がマンネリしてきた。仕事にやりがいを感じることがすくない。子育てにつかれてしまった。わたしたちは、人生における停滞を感じたとき、そこには人生のレッスンがかくれています。そして、人生のレッスンを学んでいくことこそが、人生の充実につながるのではないか、そんな想いをつよくしています。

わたしたちは自分についてあたえられたレッスンを学ぶために地上に生まれてきた。しかし、「あなたのレッスンはこれだ」と教えることのできる人はだれもいない。それをみつけることが、人生という個人的な旅の一部なのだ。その旅の途上で、獲得すべき多くのものがあたえられることもあれば、ほんのすこししかあたえられないこともあるだろうが、その人の手にあまるほどのものがあたえられることはけっしてない。(20頁)

「ライフ・レッスン」をみいだすには、わたしたちのこころが世界にひらかれていなければなりません。意識的にみつけようとしていなければ、「ライフ・レッスン」は人生の終末にしかおとずれることはないのかもしれません。

喪失に直面したとき、われわれのクライアントたちは、重要なのは愛だけだったということに気づいた。じつは愛こそは、われわれが自由に御し、身につけ、もち歩くことができる唯一のものである。クライアントたちは「彼方」に幸福をもとめることを断念した。そのかわり、かれらは自分がすでにもっていたもののなかに、自分自身であることのなかに豊穣と意味をみいだす方法を学び、すでにある可能性を深く掘りさげる方法を身につけた。(21頁)

なにか大事がおきなければ、わたしたちは人生からのメッセージに気づくことができません。わたしたちは無意識にそうしたおとし穴にはまりつづける生き物なのかもしれません。わたしはひとつの愛を喪失しましたが、そうした大事がおこって、ようやく、人生からのメッセージに、あるいは、ほんとうの愛とは何かということに想いをめぐらすようになったのです。


どんな状況であれ、最悪の事態に直面したときに、人間は成長する。状況が最悪になったときにこそ、最良のものをみいだすことができる。そのレッスンのほんとうの意味がわかったとき、幸福で意味のある人生もみいだすことができるようになる。完璧ではないが真正の人生がみつかり、十全な生をまっとうすることができる。(22頁)

わたしとおなじように、もしあなたが人生の落ち目にあり、苦悩にさいなまれているなら、ぜひ、人生からのメッセージに心を澄ましてほしいと思います。厳しい苦難だからこそ、そこには強いメッセージがあるはずです。

悪いときはとことん悪い。もしかしたら、そうかもしれません。毎日毎日胸が締めつけられるような想いは誰もが経験したくないものです。

それでも、最悪がなければ最良も見いだせないということを心にとどめておきたいものです。白と黒ではわりきれない。それが、人生なのかもしれません。そして、わたしたちがまなぶべきレッスンにどのような態度をとるかによって、人生の意味はかわってくるのだ、と心にきざみたいと思うのです。


『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)


2015年5月27日水曜日

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

「あなたは何者ですか?」と聞かれたら、あなたはなんと答えるだろうか?

どこそこに勤めている …というものです。どこそこ出身の…というものです。一児の母をしています…というものです。きっと、いろいろな答えがかえってくるだろうと思います。

この答えは「ほんもののあなた」でしょうか。


たいがいの人は人生のさまざまな場面で多くの役割を演じている。わたしたちはその場におうじて役割を変える方法を身につけているが、役割という殻の内側、つまり真の自己でありつづける方法を知っている人は少ない。…問題はその役割が真の自己にとってどう役立ち、どんな矛盾をもたらすかに気づいているかいないかにあるのだ。(30頁)

 わたしたちがあらためて意識しておきたいのは、その役割が「ほんもののあなた」にどのような影響をあたえているか、ということです。わたしがしるかぎり、あまりのおおくの人たちが、「役割」に「ほんものの自己」が押しつぶされています。

2年前、わたし自身、仕事でおおきなスランプに陥ったことがありますが、今思いかえすと「役割」の影で「ほんもののわたし」が呼吸困難におちいっていたとおもいます。結局は、ありのままのわたしでいることがもっとも効果的に生きれる秘訣なのかもしれません。

さまざまな役割をたまねぎの皮のようなもので、皮をむいていると多少の涙がでるように、役割の内側にある真の自己を発見するには、多少の苦痛がともなうこともある。(30頁)

とはいえ、「ほんもののわたし」を発見するということは、わたしたちの短所や欠点をみつめるということも含まれているわけですから、多少の苦痛がともなうこともあるのです。

内なる否定性の存在をみとめることは人間に必須の条件である。その存在をみとめさえすれば、そこにはたらきかけ、それを手放すことも可能になる。人生のレッスンを学んでいくにつれて、さまざまな役割の層がひとつずつはがれていき、うち奥にひそむ、自分にとって好ましくないものがみえてくる。みえてきたものが自己の本質、自分の正体であり、それが悪であるというわけではない。ただ、自分では気づかなかった一面があったというだけのことだ。(30-31頁)

わたし自身、この4ヶ月で起こった悲劇のなかで、あらためて自己をみつめかえしましたが、やはり、短所や欠点はみえてくるものです。そして、それらを直視すること。反省から学びに昇華させ、短所や欠点をもったわたしそのものを認めてあげること。「ありのままのわたしたち」を素直に認めてあげることがわたしたちが生きるうえで重要ではないかと思うのです。

人生のいかなる局面においてもつねに並はずれていい人であるとしたら、それはまやかしであり、にせものである。人生の振り子が中心点にもどるには、軌道の一方の端と他方の端のあいだを何度も往復しなければならない。そして、振り子がゆれるたびに、人は不機嫌になる。真の自己がみいだせるのは振り子が中心点にあるときだけであり、そのときの自分はなにかを得るためにあたえるような人ではなく、慈悲心から生まれた、ほんものの「いい人」になっている。(31頁)
ほんものの自己に立ちかえることは、人間の自己というものの完全性をひきうけることである。そこには、わたしたちが隠したがる暗い側面もふくまれているかもしれない。人間は善なるものに惹かれる存在だとおもわれがちだが、じっさいに惹かれているのは善でも悪でもなく真正なもの、ほんものなのだ。その証拠として、わたしたちは余分な飾りをつけて真の自己を隠している人よりも、偽りのない人に好感をいだく。(44頁)

誰にたいしても支援的で、笑顔をふるまい、ぜったいに「NO!」といわない、いわゆる「いい人」がいます。著者は、それは「まやかしであり、にせものである」といっています。

わたしは、「人生、逆こそ真なり」と考えるようになりました。

「いい顔」するから、ほんとうの友情や愛情にめぐまれない。「いい顔」するから、誰かに嫌われる。「いい顔」するから、信頼されない。これが、「人生のパラドックス」という真実。

何かをほしがらなくてもいいのです。そのままのわたしたちが、完全性であり、全体性であり、唯一無二の価値ある人間なのですから。


『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

2015年5月19日火曜日

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

前回は、人生からのメッセージに心を澄ませること、最悪のなかに最良をみいだすことができることを学びました。

わたしはひとつの重要な愛を失ったからこそ、それまでも変わらずにあったたくさんの愛に気づくことができました。たくさんの愛に生かされていたことに気づけたからこそ、感謝をおもいだすことができたのです。

大切なのは、「最悪の事態」を直視することです。恥も外聞もなくなるまで悩みぬき、自分自身を見つめ、ほんものの自己を知るようになるのです。

病気とたたかっている人をみていると、自分とはなにかを知るためには、ほんものの自己ではないものをすべて脱ぎすてなければならないということがわかってくる。死にゆく人をみるとき、わたしたちがみているのは、もはやかれらの欠点でも、過ちでも、それまでは関心の的だった病状でもなくなっている。みているのは、ただその人だけだ。というのも、生の終局にあって、その人は以前よりもずっと純粋に、正直に……まるで赤ん坊のように……その人自身になっているからだ。(24頁)

最悪の状況に直面してはじめて、わたしたちはなにかできることがあったのではないかと、やっと反省しはじめます。こうしなければよかった、ああしておけばよかった、なぜあんなことをしたのか、こうした内省をすすめていくことでほんものの自己がみえてきいきます。

その人の真の姿をみることができるのは生のはじまりとおわりだけなのか?平凡な真実が姿をあらわすのは極限状況のときだけなのか?それ以外のときは、真の自己がみえないのか?おのれの真の自己を発見し、他者のなかにもその人の真正の自己をみること……それが人生の第一のレッスンである。(24頁)

わたしがこの4ヶ月に読んだ30冊もの心理学の書籍のなかにも、この「自分自身をつらぬく」ことの重要性が書かれていました。

「わたしたち」が「わたしたち」らしく生きるからこそ「わたしたち」が存在する。「誰か」の期待や求めに応じようとするから、「わたしたち」は他の「誰か」になりかわり、「わたしたち」の存在がみえにくくなるのです。「わたしたち」が他の「誰か」になりかわってしまったら、ぜったいに「ああ、わたしは生きた!」とは言えないのです。

すでにあなたのなかにいる偉大な人物も、姿をあらわす準備ができている。どんな人でも偉大さの萌芽をもっている。「偉大な」人物が、ほかの人たちのもっていないものをもっているというわけではない。「偉大な」人物はただ、最良の自己のまえにたちはだかる余分なものを脱ぎすてているだけなのだ。(25頁)

わたしたちのなかには必ず偉大な人物がいる、と著者はいいます。きっと、偉大な人物とは「ありのままのわたしたち」ということなのでしょう。では、「ありのままのわたしたち」を阻んでいる「余分なもの」とはなんなんでしょうか。次回は、その「余分なもの」をかんがえていきたいと思います。




『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)

2015年5月7日木曜日

『ライフ・レッスン』〜人生に悩むすべての人へ〜

2015年はじまって4ヶ月あまり。

苦悩に満ちた時間に今ひとつの答えを出そうとしています。

人生はあまりにも気まぐれなものです。嫌がらせとしか思えない試練がどこからともなく突然音もたてずにやってきます。心はむしばまれ、身体はやせ細り、根性だけではもう立つことさえもままならない、そうした経験が誰にでもいちどはあるはずです。

苦悩や恐れからわたしたちは逃れることはできません。

けれども「もうこれ以上はムリ。」、「もうどうにでもなれ。」、限界のギリギリまで悩み、そこに意味をみいだすことができたなら、これまで見えていなかったこと、つまり、愛、人間関係、本当の自分、怒り、生きる意味が見えてきます。

人生はわたしたちのとる態度にかかっています。苦悩さえもそこに意味をみいだすことができるなら、わたしたちはそこから学ぶことができ、人生を豊かにすることができます。

こうしたことをおこなっていくことは、本当にむずかしいことです。たとえ、心のなかでそう思っていたとしても、何かがわたしたちの邪魔をします。

それでも、わたしたちはチャレンジしていくかどうかを選ぶことができます。どう生きていくのか、それはわたしたちの選択にかかっているのです。

わたしは、2015年おおきな喪失を経験しました。この4ヶ月苦悩に満ち、精神安定もままならず、日々を耐えしのんできました。そのなかで読んできた30冊にものぼる心理学の書籍は、それでも、わたしたちは、自分次第で幸福を選びとることができることを教えてくれます。

今日から書いていくBlogは、エリザベス・キューブラー・ロス著の『ライフ・レッスン』をなぞりながら書いていきます。エリザベス・キューブラー・ロス氏はスイス・チューリッヒ出身の精神科医で、死にゆく人の心のプロセス(経過)を説いた名著『死ぬ瞬間』の著者として知られる人物です。死にゆく人が人生の終末に見いだしたもの、それを今を生きている人への教訓として書かれたのが『ライフ・レッスン』です。


この4ヶ月にわたるわたし自身の人生のレッスンを「ラスト・レッスン」として書いていくつもりです。わたしがこの4ヶ月あまりで体験したこと、学んだことの集大成であり、わたし自身のこれからの肥やしにすることが目的です。

願わくば、わたしの苦悩や学びが、誰かの生きる勇気となり、励ましとなり、あかるい未来を切り拓いていくためのひとつのともしびになることができれば嬉しいです。

人生のレッスンとは、みずからの卑小性にはたらきかけ、否定性をとりのぞいて、自己のなかにも他者のなかにもある最良のものをみいだす作業にかかわるものだ。人生の暴風にも似たそのレッスンは、わたしたちを本来のわたしたちに立ちかえらせてくれる。わたしたちはたがいに癒しあい、また自己を癒すために地上に生まれてきた。それは身体症状の回復という意味での癒しではなく、はるかに深いレベルでの癒し、精神の、そしてたましいの癒しである。(8頁)

 人生の終末に「ああ、わたしは生きた!」というために、わたしたちが今できることをこれから考えていきたいと思います。


絶望の淵からみいだせるもの。 「ほんものの自己」のレッスン(1)

わたしがわたしらしくいること。 「ほんものの自己」のレッスン(2)

「いい人」はまやかしであり、にせもの。 「ほんものの自己」のレッスン(3)



2015年4月22日水曜日

自分に自信が持てないあなたへ。 〜自己肯定感を高める5つのステップ〜

何をやるにしても自信がない人がいる。


どこか他人と比べて劣等感をもち、「失敗してはいけない」という意識から肩に力が入り、失敗してしまう。あるいは、劣等感から猛烈に自分に負荷をかけ、結局はつぶれてしまう人。自信がなくて失敗を避けるために、そもそもチャレンジすることから逃げてしまう人。


どうにかして自分に自信をつけたいと願っている。でも、どうしていいかわからない。そうした不安は時が経つと徐々に意識から遠ざかっていくが、ひょんなことでその不安は再来する。そして、その時の劣等感や自己不信はだんだんと大きくなっていく。だから、ますます萎縮していく。


何かの本で読んだけど、幸福と不幸は複利で増加する。きっと真実なんだろう。


それでは、自分に自信を持つためのステップを紹介していこう。



STEP1
日々精神的に生きづらさを感じながら、およそ自分のモノの見方の間違いに気づけていない段階


STEP2
ふと、もしかしたら自分のモノの見方が間違っているのではないか、と疑問を持つ段階


STEP3
生きづらさをかかえる自分と他の人は何が違うのかをあれこれと考えつつ、生き方に関するテクニックを試している段階

自己啓発本なんかを読んで、テクニックやスピリチュアルなんかにはまっていく段階。スピリチュアルはいいと思うんですが、根底を変えていくには少し浅いかな?というのが僕の意見です。


STEP4
生きづらさを解消していくためにはテクニックではなく、もっと内面の根本的なことを変えなければいけないのではないか、と疑問を抱く段階


STEP5
深く自分の内面やモノの見方の特徴をふりかえり、それを修正することに挑戦をしている段階


いかがだったでしょうか。あなたは今どのステップにいましたか?

この5つのステップをみると、一足飛びに自信をつけることは非常に難しいことがわかっていただけたのではないでしょうか。


いろいろな文献や悩みを抱えた人に話を聞く限り、こうした劣等感は根が深いことが多いです。自分に自信がないということは、「自分という存在がまわりから受け入れらえてない」とも捉えられます。それだけのトラウマを抱えているとも言えるでしょう。


自分に自信をつけ、自己実現できる人になりたければ、これまでの思考を変えていかないといけません。現実を直視して、逃げることなく、ありのままの自分を見つめて、認めていくしかない。


自分に自信が持てないあなたが、まずやるべきは、あなたがあなたのことを認めてあげるということ。そして、辛い道のりではありますが、自分自身と向き合って、幸せを呼び込むモノの見方を育むこと。


大丈夫。


あなたは、そんな苦しい状況でも生き抜いてきました。
それでも、ここまでこれたことに自信を持ってください。


僕とは違って、様々な逆境をくぐり抜けてきた強者なのですから。





思想を体現する。

人生を決めているもの。住宅と街並みとぼくの視線から考える人生論。

  家づくりを検討しはじめて約2ヶ月。あれだけ回避していたローンのリスクを受け入れて、家を建てることに決めた。日本の一戸建ての寿命が30年のところ、90年もつ家を建てることを知ったのが大きなきっかけだった。90年もてば3歳の息子も死ぬまで住むことができるだろう。それならローンを組...